「新しい石板と古い石板について」より抜粋
──そこは、たくさんの神々が永遠に隠れん坊をしている場所であり、たくさんの神々が愉快そうに反論しあい、耳を傾けあい、仲直りする場所なのだ。──
そこでは、すべての時間が、瞬間にたいする愉快な嘲笑のように思われた。必然は自由に他ならず、自由と刺と愉快に遊んでいた。
そこで俺は、宿敵である悪魔に再会した。重さの霊だ。それから、重さの霊がつくりだした強制、規定、必要、結果、目的、意志、善悪などにも再会した。──
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解釈が難しいが、神々の中に悪魔も混ざっていて、それら神々と悪魔は、ある特定した場所に、一緒にいるということなのだろうか。
私は神と悪魔は同一人物でもあると考えている。善に見える神は実は悪の心をもつ悪魔だと、ほぼ確信している。
善と悪の両端の極を持つのが悪魔だと。
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12/16追記
このニーチェの執筆した「ツァラトゥストラ」のページを読み進める度に自分と同じ考えの文章に触れる。
未だ嘗て自分とこんなにも想いが似ている人はいなかった。リアルでも、SNSでも、本の中でも、動画の中でも。ツァラトゥストラは本当に私ではないか?似過ぎてはいないか?
「新しい石板と古い石板について」より抜粋
俺が好きなのは、自分を守ろうとしない人間だ。没落する人間を俺は心の底から愛している。なにしろ、向こうのほうへ渡っていく人間なのだから──。
真実である──ことができる人間は少ない!真実であることができる人間は、真実であることをまだ望まない!真実であることが一番できそうにないのが、善人である。
おお、善人よ!──善い人間はけっして真実を語らない。そんなに善人であるのは精神が病気なのだ。
善人たちは、譲歩する。服従する。心では、言われたことをくり返す。もちだす理由も、誰かに言われた理由に過ぎない。言いなりになる者は、自分の声を聞いていない!
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自分を守っている人ばかりだ。何かにしがみついてそのルールに乗っかり、人のせいにする。
長いものに巻かれ、自分の道がわからず、模倣しておけば安泰だと皆が思っている、自分の人生を生きていない人ばかりだ。
その巻かれてる長いものは何かということまで私は見抜ける。
自分の声など聞こえないだろう。聞こえても隠し通すのだろう。長いものの声が聞こえ、服従する為、略奪の為の戦略しか考えられないのだ。
なぜこんなに、皆、心が透けてカスカスなのだ。私には皆が、同じ点滴を投与されて、それを押しながら同じ方向へと歩く夢遊病者に見える。
皆、他人を模倣した、虚構性で生きている。