俺の胃は──鷲の胃だろうか?何しろ羊の肉が大好物なのだ。確かに俺の胃は鳥類の胃だ。
罪のないものを、ほんの少し食べて、いつも飛びたくてうずうずしている。──それが俺の流儀だ。どこかの鳥類に似てないだろうか!
そして俺は、重さの霊の敵なのだから──実際俺は、重さの霊にとって宿敵であり、不倶戴天の敵であり、大昔からの敵なのだ。俺の敵意が進路を間違えながらも飛んでいなかったところがあるだろうか!
──もちろん歌手はいる。連中は小屋がいっぱいになると、喉が柔らかくなり、目が表情豊かになり、目を覚ます。──だが俺はそういう連中とは違う。
人間にとって、この地上も地球も重い。それを望んでいるのが重さの霊だ!軽くなろうと思うのなら鳥になろうと思うなら、自分を愛する必要がある。愛するのはもちろん病弱な者や中毒患者の愛によってではない。
ほとんどまだ揺籠にいるときすでに、俺たちは重い言葉と価値が与えられる。「よい」と「悪い」──それが、与えられるものの名前だ。それを持っていることによって、俺たちは生きることが許されるのだ。
そして、小さい子供達は、「こっちにおいで」と呼ばれて、自分を愛することを早い段階で禁止される。それは重さの霊のしわざだ。
そして俺たちは、──忠実な俺たちは、与えられたものを引きずるようにして運ぶ。その荷物は肩に重く、荒涼とした山を越えていく!
──しかし、人間だけが、背負うには重いのだ!それは人間が、自分の知らないものを、たくさんかついで運んでいるからだ。
自分の知らない言葉と価値をあまりにもたくさん背負う。
もっとも吐き気がするのは、人のよだれをなめるおべっか使いだ。もっとも吐き気のする人間という動物を俺は寄生虫と名付けてやった。
愛する気はないくせに、愛を食って生きようとする寄生虫め。
悪い動物になるか、悪い動物使いになるか、
それしか選択肢のないやつのことを俺は不幸者と呼ぶ。──いつも待ってばかりのやつのことも、俺は不幸者と呼ぶ。
──いろんな道や方法をへて俺は俺の真理に辿り着いた。いま、俺の目の前は遠くを見まわしているが、この高さまで登るのに、使ったハシゴはたったの一本ではなかった。
仕方なく、道をたずねたこともあったが、不本意だった。──道をたずねるなんて、俺の趣味ではなかった。むしろ俺は道にたずね、道を試したのだ。
──いい趣味ではない。悪い趣味でもない。だがこれが俺の趣味なのだ。俺はもうそれを恥ずかしいとは思わないし、隠しもしない。
「これが俺の道だ。──君たちの道はどこにある?」と、俺は「道を」たずねてきた連中に答えてやった。つまり道なんてものはないんだよ!
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「重さの霊について」は私が常に感じていること全てをツァラトゥストラが代弁していた。
このセクションをほぼ転記してしまった。
それほど、私は一字一句残さず、ツァラトゥストラの言っているその想いと同じなのだ。
ツァラトゥストラは、写実的で抒情表現の多いニーチェとは別の人格であると、ここで気づいた。
私はニーチェと思想は同じだが、性質はツァラトゥストラと酷似している。私は言葉が豊かではない、それ一点を除いて。
途中の大きな文字は愛、愛と抒情表現をしている方と、愛という言葉を理解せず使っている方へ向けての、私の心の顕れです。
その前の太字ですが、本書も太字となっています。
ツァラトゥストラの名前の由来…