よく耳にする、「〜は〜と言われている」という言葉。他者の言葉の引用だ。
自身では確信がないため、権威者の言葉や、一般的に言われている、都合の良い言葉の一部分を切り取って自身を正当化する為に用いる方法でもある。
私はこれが大嫌いだ。確信がなければ発言しなければいいと思う。
自身が体現出来ていないため、自信がないのだ。
自分の体現出来ている、自分の身となっている言葉だけを使えなければ、それを知っているというだけに過ぎない。
某心理家がよく、本は他人の体験した経験が自分の経験になる。と言って図書室のような自宅にこもっていたのを思い出すが、経験になんてならない。本を読んで暗記しただけなのだ。ま、それで本人が楽しければいいのだが、そんな彼も、この世では支持されるメンターの一人となってしまった。
その言葉で虚飾しなければならない理由は何か。
権威者に便乗し自分の価値を高めたいのだろう。また権威者を批判して尤もらしい正論を言えば、その権威性を乗っ取ることが出来る。
真偽がはっきりしない、個人では確認することが困難なものに対して、自身の概念の方が正しく尤もらしそうに見えれば、その権威者より株が上がる場合もある。
体現出来ていない、机上の空論だけで世渡りが出来る。
投資も、踊る大捜査線も同じだが、リアルな現場にいないのに、現場を操ることが出来る。
私はこれらの行為が本当に好きではない。
し、見たくない。
それらには虚構性がほぼ全てを占めている。
専門家やカーストトップ、お上の言葉しか通らなくなってきたこの世の中とSNS。権威の引用しなければ末端の意見など誰も信用しないのだ。
私は逆だ。
本人の虚構性を省いた本来性の経験から基づく、自己同一性の言葉でないと、受け入れられない。
全ての人の、その個性を最も優先すべきであり、それが大切で、その個性が好きだ。