学校文法が自虐的言語観の原因である 2 | 東京大学村上文緒愛好会

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一つ一つの言葉にこめられた作者の思いがわかったとき、古典は本当に面白いと思った。古典を楽しみたい。その思いが古い言葉の意味を求めるきっかけにもなった。

文部科学省はなぜ学校文法を直さないのか
文部科学省はなぜ、多くの言語学者の批判にもかかわらず、学校文法を修正しないのだろうか。その理由を推察するのに、次のように考えているのではなかろうか。

1. 論理的な文の組み立ては主語-述語である、という思い込みがある。
2. 主語-述語ではなく、主語-解説が日本語の文の組み立てであると教えると、日本語は非論理的な言語であるということを認めることになるが、これはまずい。
3. 主語-解説が非論理的でなくては、日本独自の論理であるにしても、そんな変な論理ではまずい。
4. だから、主語-解説は認めない。

「主語-解説」も教えよう
しかし、これまで説明してきたように、日本語の論理の基本は命題論理であり、これは変な論理ではまったくなく、世界標準の論理なのである。だから、ぜひ、学校文法を見直してもらいたい。簡単な見直しである。「主語-解説」というのもある、と追加するだけである。
文部科学省のホームページ (文部科学省 2004a) では以下のように書かれている。

国語は、各人の論理的思考力の基盤である。思考と国語は密接に結び付いており、深く思考するためには豊かな語彙 (い) が不可欠である。思考そのものが国語によって支えられているが、日常生活で必要となる論理を身に付けるためにも、国語の運用能力が重要な役割を果たしている。

「国語は、各人の論理的思考力の基盤である」「思考そのものが国語によって支えられている」。まったくそのとおりである。しかし、残念ながら、教える側が国語 (日本語) の論理性を自覚していないのである。
多くの国語の教師は、なんとなく「日本語はだめだ」と考えているのではなかろうか。そして、それは授業を通して、知らず知らずのうちに子どもに伝わっているのではなかろうか。国語の先生には、日本語が論理的であり、国語の論理が世界標準の論理であることを理解してもらいたい。そして、胸を張って、日本語の次世代への継承を行ってもらいたい。
また、外国人に日本語を教える先生は、外国人からの質問で答えに窮することを繰り返しているうちに、「日本語はだめだ」と思っている人も多いのではなかろうか。日本語の先生にも、日本語は論理的であり、日本語の論理が世界標準の論理であることを理解してもらいたい。そして、自信を持って、日本語の普及につとめてもらいたい。

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