学校文法が自虐的言語観の原因である | 東京大学村上文緒愛好会

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一つ一つの言葉にこめられた作者の思いがわかったとき、古典は本当に面白いと思った。古典を楽しみたい。その思いが古い言葉の意味を求めるきっかけにもなった。

学校文法が「日本語は非論理的」の原因
「彼は背が高い」や「東京は車が多い」という文の主語はどうなるのであろうか。「彼は背が高い」の主語は「彼は」と「背が」のどちらかなのであろうか。「東京は車が多い」の主語は「東京は」と「車が」のどちらなのであろうか。これらの文は、作為的に作った変な文ではない。日常会話でしょっちゅう目にするきわめてふつうの文である。このようなふつうの文さえも説明で着ないような説を、中学校の一年生に教えているのである。
もし、教師が、生徒から「先生、「私は月が見える」という文の主語は、どれですか?」と聞かれたら、何と答えるのであろうか? 「私」と答えるのであろうか? 「月」と答えるのであろうか?それとも、「私」も「月」も主語だと答えるのであろうか。教師は答えに窮するであろう。答えられない責任は教師にはない。その責任は、教科書にあり、教科書にを作った人であり、最終的には文部科学省にある。
中学校一年生にとっては、教科書に書かれていることは絶対である。彼らは「文は主語+述語」で構成されていなければならないと思い込む。その頭で、彼らが自分たちが普段話す文を観察すれば、そこには主語や主語らしきものが二つもあったり、一つもなかったりする。
中学一年生は、もうすでに十年あまり日本語を話し続けてきたので、知らず知らず農地に、日本語の文法を身につけているのである。身についた無自覚な文法と、明文化された学校で習う文法の違いに戸惑ったときに、どう考えるであろうか。学校で教わることは正しいとされているので、長年かけて身につけた文法のほうを間違っていると思う。これが不幸の始まりである。そうすると、「日本語はいい加減だなあ」とか、「日本語はだめだ」とか「日本語は論理的ではない」という感じをいだくようになる。これが自虐的言語観へと発展してゆく。
子供たちは、普段の会話で日本語に内在する論理 (容器の論理) を用いている。それは無自覚なものである。その無自覚に身についた文法を自覚させるのが、本来の文法教育の指命であろう。
しかしながら、現行の学校の文法教育では、身についた文法とは違う文法を、生徒に教えるのである。学校文法は、日本語の論理ではなく、英語の論理 (主体の論理) を生徒に叩き込む。生徒は日本語を歪めて理解することになる。その結果、生徒は日本語の論理を育てることができない。学校文法は、生徒の論理的思考力の成長を阻害しているのである。
学校文法は、英文法を踏まえて作られた文法であり、日本語を英語の枠組みでとらえたようなものである。それゆえに、日本語が非論理的に見えるのである。この逆に、英語を日本語の枠組みでとらえれば、英語も非論理的に見える。英語の主体の論理を通して、日本語をゆがめて見ることによって、日本語が本来持っている論理である容器の論理を、見出せていない。このような間違いにより、日本語は非論理的な言語であるという誤解が定着する。
そして、彼らは成人になって、日本語をなじることになる。日本語は非論理的であると。なぜなら主語が省略されるからだと。今の中学生が日本の社会の中枢を担う三、四十年後、彼らは、このような自虐的言語観をいだきながら、現在以上に国際化された社会で、日本語を使わねばならない。日本語にとって不幸なことである。さらに、日本にとっても不幸なことである。
大雑把に言えば、自虐的言語観は、以下のようにして作られていると私は考える。

1. 中学校の国語の授業で、主語-述語が文の組み立て、と教わる
2. 実際の日本語の文には、しばしば、主語がない
3. だから、日本語は文法的でない、論理的でい、と思うようになる

したがって、学校文法を見直し、日本語の論理性を率直に表現できるようにすべきである。日本語に対する正当な言語観を獲得するには、中学校の文法教育を修正する必要がある。

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