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 15:50に「石巻観光タクシー」さんに電話してタクシーを呼び、10分ほどで石巻南浜津波復興祈念公園の日和が丘口に到着した。「石巻駅までお願いします」と伝えて、駅まで送ってもらった。

 今回来てくれた運転手さんは女性だった。女性運転手さんは石巻市のご出身だが、震災当時は神奈川県にお住まいだったという。私が運転手さんに、神奈川県のどこにお住まいだったかを聞くと、かつての私の生活圏だった地名が出てきた。神奈川県の地名を聞いて懐かしさを覚えるということは、やはり私の「心の故郷」は神奈川県なのだと思う。

 石巻駅へ向かうタクシーの車中では色々なお話を聞かせて下さった。私が旅行1日目に大川小学校を訪れたことを
話すと、あの一件は、地元の人の間でも価値観が大きく異なると仰っていた。そして「価値観の違い」という言葉を聞いて思ったことが、私がかつて勤めていた職場で受けた「理不尽な発言」のことだ。地元(石巻)の人に話すかどうかはものすごく迷ったし、賛否両論があって当然だが、いつまでも自分の心の中に留めておくのは苦しく、話さずにはいられなかった。

 私から「理不尽な発言」のことを聞いた運転手さんは、「そんなこと言う人がいるんですか!?」と、とても驚いた様子だった。そして「その発言は絶対に許せないし、そういう発言をしたらいつか自分に返ってくる」と仰っていた。
 やはりその発言を許す必要なんてないし、人間にはどんなに頑張ってもできないことがある、というのは間違っていないことだ。やるべきことをやるのは大切なことだが、人間は自然のチカラには勝てない。自然の猛威をはじめ、危険から身を守るには「逃げる」ことしか方法がない。しかし、「逃げる」ことを許さない風潮や組織体制はまだまだ沢山ある。「逃げる」ことは悪いことなのだろうか。


 旅行2日目(3)の記事で、「健常者同士でも、病気や障害に対する差別や偏見は存在する」と書いたが、震災においても同様のことが言える。被災していない人間同士でも、「災害」に対する考え方は大きく違うのだ。

 東日本大震災が起こる前は、「津波が来ても走れば逃げられる」「学校の先生は子どもの命を守れて当然」「家族を置いて自分だけ逃げるなんてとんでもない」などの考えを持っていた人も多かっただろう。実際、私自身も「津波」に対する知識なんてなかったし、学生の頃までは「何かあっても先生が守ってくれるから大丈夫」と思っていた。むしろ、学校の避難訓練でも「まずは先生の言うことを聞きなさい。自分勝手な行動はダメ」と教えられてきたように思う。(もちろん学校などでは先生の指示に従って行動することが大事だが)

 しかし、東日本大震災では「想定外」の被害が続出した。「津波が来ない」と言われているような地域にも津波が襲来し、津波火災などの二次被害によって被害がさらに拡大してしまった。未曾有の大災害を経験して、「津波てんでんこ」という言葉の重みを実感した人も多かったのではないだろうか。
 自分の身を守れるのは自分しかいない。人の指示を待っているだけではいけない。避難を呼び掛ける学校の先生や消防団の人、市町村の職員さんだって、危険が迫れば「逃げる」からだ。別の記事でも書いたが、何もかもを破壊してしまう自然災害から助かる術は「逃げる」ことしかないのだ。


 復興祈念公園からタクシーに乗って15分ほどで石巻駅に到着した。運転手さんから、「旅費も時間もかかるのに、(石巻に)来て下さって本当にありがとうございます」と言われた。地元の人にとっても、「実際に現地に足を運んでもらえる」ことが一番嬉しいのだろう。私も運転手さんにお礼を言い、石巻再訪を誓った。

 帰りは旅行1日目と同じ、16:55の仙石東北ラインに乗って仙台駅へと戻る。そこから18:31の東北新幹線に乗って東京へ戻る予定だ。発車まで時間があるため、駅構内のNewDaysで買い物したり、仙石線の「マンガッタンライナー」を撮影したりして過ごした。仙石線車両の石巻方には、石巻市のご当地ヒーロー「シージェッター海斗」が描かれている。

 車体側面にはシージェッター海斗だけでなく、仮面ライダーやロボット刑事も描かれていた。

 16:55の仙石東北ラインに乗り、17:49に仙台駅に到着した。仙台駅構内でお土産と駅弁を買い、18:31の東北新幹線「はやぶさ38号」に乗った。
 去年(2022年)の旅行と同様、牛タン弁当を購入。牛タンだけでなく、付け合わせのソーセージも美味しかった。



 20:04に東京駅に到着した。そこから別の電車に乗り換えて千葉の自宅ヘ。自宅到着は21:30頃だった。
 これまでの1泊2日目の旅でも、一番「濃い」旅だった。


 旅行記本編はこれにて完結!最後の「総括編」にて本当の完結です…!