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震災遺構となった校舎の見学を終え、次に向かったのは特別教室棟だ。特別教室棟へ続く廊下には、被災者の生の言葉がいくつか展示されていた。その中でも印象に残ったものをピックアップしていく。(引用文は読みやすいように、必要に応じて句読点などを使用しました)
耳が聞こえないということ
ドンッ!と突き上げられて
次にグラグラグラッ!と三分近く大きく揺さぶられる。
物が落ちてくる。 ガラスが割れる。
何が起きたのか理解できないなかで恐怖心との闘い。
音のない状態で
突然 そんな状況に置かれたら
あなたはどうしますか。
避難しますか。
避難できますか。
想像してみてください。
音が分からないと…
防災無線での避難のよびかけに気づかない。
目からの情報が頼りなのに
地震の影響で停電し、テレビが映らないと…
全く情報がつかめない。
だから、大津波がきていることも知らずに
家にいて犠牲となった 障がいを持つ人たちの存在を
あなたは知っていますか。
この展示は、聴覚障がいを持つ人の被災の実態を表したものだ。聴覚障がいを持つ人は「音」による情報を受け取れない。耳が聞こえない(聞こえにくい)ことによる不便さというと、「コミュニケーション」の障害がすぐに予想されるが、「『危険』に気付けない」というのが一番の障害ではないかと考える。
人は情報の8割以上を「視覚」で得ているといわれるが、「音」(聴覚)でも様々な情報を得ている。自転車のベルや車のエンジン音やクラクションはもちろん、駅のアナウンスなどでも様々な情報を得ている。
自分でも上手く言えないが、「音」が持つ最大のメリットは「即時性」だ。火災報知器の非常ベル、緊急地震速報のサイレン、Jアラートなどの音は、「緊急事態」「非常事態」であることを速やかに知らせ、人を危険から守るものだ。
しかし、聴覚障がいがあると、その「緊急事態」という知らせすら受け取れない可能性が出てくる。悲しいことに、その知らせを受け取れずに犠牲になられた方もいらっしゃる。
2016年、熊本地震が起きたときにTwitterで流れてきた「聴覚障害者の災害時に困ることって?」の動画がある。ぜひご覧頂きたい。
しつこいようだが、「災害」「障害」「避難」、この3つのワードを聞いてどうしても思い出してしまうのが、私がかつて受けた「理不尽な発言」だ。
ものすごく迷ったが、私がかつて受けた「理不尽な発言」の内容のひとつを書くことにする。
私は「放課後等デイサービス」に勤め、発達障害を持つ児童生徒の支援をしている。私がかつて勤めていた教室に、注意集中が難しく、ちょっとした物音や人の動きに反応してすぐに離席してしまうなどの特性を持つ生徒がいた。
私もちょっとした物音や人の動きにすぐ反応してしまう癖があり、色々な人からよく「落ち着きがない」と言われていた。そのさまを見て、過去に在籍していた女性スタッフに「あずささんって障害児みたいですよ」と言われたのだった。怒りや悲しみを感じる以前に、只々驚くばかりで返す言葉がなかった。
確かに、前の職場では上司に叱責されたくないという思いが強く、上司のちょっとした声や動きに過剰反応してしまい、注意を受けたこともあった。何かに夢中になると周りが見えなくなり、「もっと周りを見なさい」「視野が狭い」と言われて、ちょっとした物音や人の動きに反応するようになってしまった、というのもある。そのため、女性スタッフの言うことを真に受けてしまった。そして、当時の上司(教室長)を含め、誰にも相談できなかった。
先述したとおり、もちろん本当は全体公開の記事で「理不尽な発言」の内容なんて書きたくなかった。病気や障害をお持ちの方、そのご家族にとっては「一生の傷」となる言葉である。
しかし私は、健常者同士でも、病気や障害を持つ人への差別や偏見があると感じている。そのことを知ってもらいたくて、書くことにした。
ここで、思っていることを全て書かせてもらう。長文ですし、文章も長いので、読みたくない方は回れ右して頂くようお願いします。
先述したとおり、確かに私はちょっとした物音や人の動きに過剰反応していたことがありました。
何かに夢中になったり、熱が入ったりすると声が甲高くなったり、声が大きくなったりしたこともあります。
それが他の児童生徒やご利用者様(前職は成人施設でした)に良くない影響を与えていたのは事実です。
しかし、なぜそのさまを「障害児みたい」という言葉を使って表現したのですか?
病気や障害は好き好んで負うものなのですか?
児童生徒やご利用者様が好き好んで病気や障害を負ったと考えているのですか?
病気や障害に対する知識がないのは悪いことではありません。
最初は仕事ができなくても仕方ありません。
驚くこともあるでしょう。
私だって、最初はご利用者様のトイレ介助は抵抗があって全くできませんでした。
発達障害を持つ児童生徒の中には、自傷・他害など「問題行動」をしてしまう方もいらっしゃいます。
注意集中が難しく、すぐに離席してしまう方もいらっしゃいます。
しかし、児童生徒が好き好んで、そのような行動を取ると思いますか?
病気や障害の全てを受け入れろとは思いません。
実際、私だって、児童生徒の障害の全てを受け入れてはいないし、今後も受け入れることはないでしょう。
私は成人施設に勤めたあと、放課後等デイサービスに転職しましたが、自傷・他害のある生徒のことは全く受け入れられませんでした。
女子児童・生徒ともなれば尚更でした。
何を書いても言い訳にしか聞こえないかもしれませんが、
私の場合、「女の子は『おしとやかに』」と言われて育てられてきた、その影響が大きかったのだと思います。
私は、「おしとやか」なはずの女の子が乱暴なことをするのが受け入れられず、「関わりたくない」と思ってしまい、当該の児童生徒の対応から逃げていたのは確かに良くなかったと思います。
関わりが上手く行かなくても、まずは当該の児童生徒と「信頼関係」を築くべきだったと思います。
当該の児童生徒だって、好き好んで自傷や他害をしていたわけではありません。
自傷や他害をしてしまっている本人が一番辛いと分かっていなかった自分にも非はあるでしょう。
なぜ、当該の児童生徒がそのような行為に至ってしまうのかを考えなければいけなかったと思います。
健常って何でしょうか?
障害って何でしょうか?
人はこの世に生を受けたときから「リスク」にさらされて生きていくことになると私は考えています。
生まれたときは五体満足・健康そのものでも、生きている間に病気や事故などで「障害」を負う可能性もあるのです。
「障害」を負うことは誰にでも起こりうることです。
それがいつ起こるのかは分かりません。
それが早い時期だったのか、後になってからのことだったのか、その違いではないでしょうか。
私が五体満足でいることって、いけないことなのでしょうか?
五体満足、健康な身体があるからこそ、自分で選んだ人生を歩めていると私は考えていますが、違いますか?
障害のある人の人生が「不幸」だと思ったことはありません。
確かに「将来」のことを考えると、苦労や不便は沢山あるかもしれません。
しかし、教室に通う児童生徒を見ていると、とてもそうは思えません。
なぜなら、みんな「一生懸命」生きているからです。
特別支援学校や個別支援級、放課後等デイサービスでの療育など、支援を受けながら「生き生きと」生活しています。
逆に、五体満足で健康な人であっても、「やりたいこと」も「目標」も見つからずに生きている人もいます。
「生きづらさ」を自覚していても、必要な支援を受けられずに、二次障害を発症したり、精神を病んでしまう人もいます。
どんな人間でも、生きていくうえでは、「支援」が必要です。
必要な支援を受けられないほうが不幸ではありませんか?
赤ちゃんがオムツを替えてもらったり、学校に通って教育を受けたりするのも「支援」ではありませんか?
病院に行って医療を受けるのも「支援」ではありませんか?
大人になってからも「支援」は必要です。
就職に必要な免許や資格を取ったり、入社したての会社で仕事を教えてもらったりするのも「支援」ではありませんか?
結婚や子育てだって、行政や民間からの「支援」があってこそできるものだと思いますよ。
人はひとりでは生きていけません。
だからこそ、「支援」が必要なのです。
もう一度言いますが、病気や障害の全てを受け入れろとは思いません。
「思う」のは個人の自由です。
しかし、思ったことが「本当」のことであっても、表に出して良いかどうかは考えて頂きたいものです。
「報連相」など、やるべきことができていなかったのは事実です。
全ての人から好かれよう・気に入られようとは思いません。
しかし、いくら本当のことでも、言ってはいけないこともある。
本音を言えば、思っているのもイヤですが。
「障害者と避難」のことに関しては、陸前高田市の「いわてTSUNAMIメモリアル」を訪れたときの記事にて書いているので、ここでは割愛させて頂きました。