モンゴルの侵攻 古代神と見るウクライナ史5 | 宇宙の叡智を降ろすブログ

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モンゴルの襲来(AD1223-AD1240)

当時の『ルーシ』は親族間の争いで弱体化していました。

 

そこに当時世界最強の軍隊、モンゴル(ロシアではタタールという)が『ルーシ』に侵攻してきました。

 

 

出典:モンゴルのルーシ侵攻 - Wikipedia

 

 

 

当時のルーシの年代記作者は、この悲劇(モンゴル襲来)を「われわれの罪のせいで」ととらえた。続けてこう書く。「見知らぬ民が現れた。彼らの故郷も、彼らがどこから来たかも、彼らの神は何者なのかも知る者はなかった。神だけが知っていることであり、もしかすると賢者は本を読んで知るかもしれない。」

引用:モンゴルのルーシ侵攻 - Wikipedia

 

モンゴルは、1223年と1236年の侵攻を行う。ルーシ諸国は抵抗するものの大敗し、各都市が陥落略奪された。1240年にはキエフが破壊され、『ルーシ』(キエフ大公国)は滅亡した。

 

 

 

1238年、スーズダリ(現ロシア)の略奪。

16世紀に書き写された年代記の細密画より。

出典:モンゴルのルーシ侵攻 - Wikipedia

 

 

 

 

 

タタールのくびき(AD1240-AD1480)

キエフ大公国は滅びましたが、モンゴル(タタール)は直接スラブ人を支配するのではなく、税の徴収をしたり、領主の後継に口を出し、税金を取り立てる間接統治によってルーシの地を治めました

 

 

 モンゴルによるロシア支配の期間は2世紀半に及び、「タタールのくびき」と呼ばれてロシア人は悪いイメージをもっています。しかしながら、征服後のモンゴルは人口も少なかったことからルーシの諸侯を使った間接統治を行い、納税と軍役さえ行えば、政治的忠誠と軍事的方向を条件として「本領安堵」をしました。そして東西交易はモンゴルという大帝国の出現により栄え、その恩恵はルーシの地にも及びました。またモンゴル人は宗教にも極めて寛容でした。後のロマノフ王朝はモンゴルの庇護下でルーシの最高の地位とされたウラジーミル大公の地位を独占してゆき、最終的にはモスクワ大公と呼ばれるようになります。1326年には全ルーシ最高の聖職者であるキエフ府主教をモスクワに迎え、精神的にもキエフに代わってルーシの中心になって行った。彼らが次第に勢力を拡大していく一つの遠因がモンゴルのハーンに収める税金の納入を引き受けたからであり、一説によれば実はこの時代がロシアの歴史上もっとも税負担が低い時代だったと言われています。

(修飾・強調引用者)引用:語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係 | キヤノングローバル戦略研究所

 

 

フミ:タタールのエネルギーを感じてみました。
タタールは、非常に文化的で先進的な感じです。残酷な面はありましたが、優れた知性を感じます。

当時は遊牧民の方が発展していたんですね。

明らかに、ルーシの方が粗野で野蛮な感じです。

 


ダジボーグ:彼らタタールは世界最強だったが、定着できたのはクリミアだけだ。
彼らとて、この地を最初から税金だけ取り立てようとは思っていたのではない。
この地を占領し支配するのは大変だと気がついたのだ。だからルーシの民にある程度の自由を許したのだ。

 


この地の戦いは、常に民族の生存をかけた戦いなのだ。


損とか得とか、そういういったものは主体となる民族がいてこそだ。
だから金や死者数など気にする者はこの地では、必ず負けることになる。

 

 

タタール人のソースロシアのゴールデンホード、タタール人、モンゴル人| 事実と詳細

 

 

 

 

 

タタールのくびきからの解放(AD1380,AD1480)

モスクワ大公国は、辺鄙で地理的にもなんの利点もない場所でした。しかしモスクワ主達は、他のルーシの民から税金を徴収し、それをタタールに納める徴税官の働きをしました。ルーシの民の反乱があったときには、タタール側に立ち鎮圧しました。

このようにしてタタールの下で、モスクワは力を付けていきました。

 

 

タタールがお家騒動で弱体化すると、モスクワは、今が好機と、ついにタタールに対して反乱を起こします。
1380年、クリコヴォの戦いでモスクワはタタールを破りました

 

 

しかしその2年後に、タタールによってモスクワを略奪され、タタールへの税の支払いは継続します。
クリコヴォの戦い。

 

 

 

モスクワが、完全にタタールへの臣従をやめたのは、1480年のウグラ河畔の対峙の時でした。

 

ウグラ河を挟んで、モスクワ軍とタタール軍は対峙します。大勢力をみたタタール軍は、戦うことなく引き上げていきました

こうしてモスクワ大公国は240年間のタタールのくびきから解放されたのです。

ウグラ河畔の対峙。

 

 

 

 

リトアニア大公国(AD1009-AD1569)

ここから話をリトアニアを移さないといけない。現ウクライナの地でモスクワより先にタタールを追い払ったのがリトアニアだからである。

 

リトアニアの国名が歴史的な文書に最初に登場するのは1009年。

当時のリトアニアと現在のリトアニアとほぼ同じ位置にある。

リトアニア人は、ラトビアと共に東バルト人を形成スラブ人ではない。

 

 

10世紀から11世紀にかけては、リトアニアはキエフ大公国に貢献する国の一つで、1040年にはキエフ大公国から侵攻も受けています。

現在のリトアニア。出典:リトアニアと周辺国の地図 - 旅行のとも、ZenTech

 

 

 

当時キリスト教を受け入れていなかったリトアニアは多神教であり、西のキリスト教国からの十字軍によって攻められていた。それを100年間はね除けながら、むしろリトアニアは力を付けていきます

 

 

強力になったリトアニアは、モンゴル襲来後の崩壊したルーシ諸国を占領していった。

出典(矢印引用者):Lithuania - Wikipedia

 

 

14~15世紀のリトアニア兵士(再現)出典:Leičiai - Wikipedia

 

 

 

ついには1362年の青水の戦いでタタール軍を破り、リトアニアはウクライナの大部分を占領します。

青水の戦い。

 

 

 

 

ポーランド・リトアニア合同

1385年、リトアニア大公はポーランド女王と結婚し、ポーランド王を兼ねるようになります。この条件としてキリスト教に改宗します。(ルーシ・モスクワは正教なので後に宗教的対立をまねく)

 

年数を重ねる内にリトアニア君主とポーランド君主は同一になり、文化的違いもほぼなくなっていき、1569年に両国連合してポーランド・リトアニア共和国になります。

ただ実質的には、国力衰退したリトアニアをポーランドが併合したことになる。

 

 


  出典:Historia de Letonia - Wikipedia

 

 

 

フミ:このあたりはずっと戦っていますねびっくり


ダジボーグ:そうだ。この地は豊かな土地でもあるが、冬は大変寒くもある。
つまり発展と破壊のエネルギーが共生しているのだ。
昔からルーシの民は争いあっていた。彼らは部族同士で繋がりであい、彼らは全体は統一することがない。
統一されるにはこの地は豊かすぎるのだ。<

 

ウクライナ紛争程度で騒ぎ、お前は私と繋がった。

その程度の戦は昔からあることなのだから、そんなに心配することはない。

昔は馬で駆け弓矢で襲ったが、今は大砲を撃って戦車で攻めている。
そんなに悲惨に思うことはないぞ。

数百年に一度はやらないと気分が優れない祭りのようなものだ。
 

 

人々の血が大地に染み込み

それが新しいエネルギーとなり

この地を豊かなものへと変えていくのだ。


フミ:えぇぇびっくり
お祭りですか!?

神さまの視点は広いですね。。

 

今回のチャネリング相手:太陽神ダジボーグ
スラブ神話の神慈悲深い太陽神。万物の創造主スヴァローグの子。

その名は文字通り『与える神』(Dazh[命令型]+bog[幸福、反映])を意味している。黄金の翼をもつ4頭の白馬が引く戦車で空を横切り、『火の盾』で陽光を創り出した。彼はまた豊穣神でもあったから、人々は自らを誇り高く「ダジボーグの孫」と呼んだ。

 
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