実家に帰る前にリクエストを聞かれて、おでん、と答えたら父が作ってくれました。
おいしかった〜〜🍢
ありがとう。
〜〜〜〜
今日は彼とルピシアに行ってお義姉さん贈るお茶を選んだ(沢山の缶が並び、一つ一つのお茶の香りがかげるようになっていて、至福だった)あと、喫茶店で本を読んだりノートを書いたりして、そのあと本屋さんでゆっくりした。
茨木のり子さんのエッセイ『言の葉さやげ』を読んだ後だったので、石垣りんさんが気になり、その詩集を少し立ち読みした。
中で目が止まったのが、「くらし」という詩。
以下引用〜〜〜〜
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこられなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。
〜〜〜〜
僅かにだけど確かに、目をカッと見開かされた感覚がしたし、心の中の血が渦巻いたように思えた。
解説はついていなかったのでどんなふうに捉えるべき(?)ものなのかはわからなかったけれど、特に目を離せなかったのが"父のはらわた"と"私の目にはじめてあふれる獣の涙"というところ。
実際に父の姿が…父の臓器がそこに落ちているのが靄がかったぼんやりしたイメージの中で浮かんだように思えた。
私はひとつの腑に、養われた生なんだ。
父という生身の人間が育てた生き物なんだ。
そういう命の姿が一つあるんだ。
と思ったとき、
自分の、肉体としての逞しさと禍々しさ暑苦しさ…いろんなものを喰らって、必死に喰らって、汗と涙を流して、その数百倍の汗と涙と血に支えられて生きてきたことの事実みたいなのがぐわっと眼前に迫ってきた感じがしてたじろいだ。
私ののほほんとした心はそのたじろぎをすぐ喜びに移ろわせてしまったけれど、それはだめなことかもしれない。
だけど自分の身が、どうしようもなく受けてきた情けや、獣として人間としての愛情を、まざまざと身体で想像させられたと感じたとき、この体の、愚かさ小ささと、その愛おしさを同時に覚えた気がして、それが嬉しかった。
獣の涙が流れることが私にもあり得るのか?
獣の涙はつまり何?
って問いにはまだ自信をもてない。
獣としてのシンパシーや誰かを慕う感覚は、肌で覚えるものとして、ありえるんだろうし、日々その感覚を携えて生きてはいるのだろうけれど。
父や母だけじゃない。
他に数え始めたらキリがないものたちを、私は目と耳と心と身体で喰らい尽くしてきたのかもしれない。
生きることのために、自分の精神身体の快さや希望のために、むさぼるように求めてここまできたという自分の心と体のもつ側面に、あっ…と思ったんだった。
なんて、そういう感覚は、小さな波紋くらいの静けさで瞬時に起こったことやった。
でもこの感覚を、なんだか、忘れたくないと思ったんやった。