痛くて苦しくても、認める | roundabout

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日々感じたり思ったりしたことを書いています。
気持ちのこと、摂食障害のこと、人とのこと、猫のこと。



鶏ひき肉とセロリのレモンクリームパスタ

人参マスタード和え


洋食が食べたい気分でした。


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羊文学のmore than wordsという曲を聴いていて、その歌詞がいいんだよと夫に教えたら、一つ注意を受けた。


〜〜〜歌詞引用〜〜〜


いつからか正解を選ぶのが楽になって
本音言う無邪気なペース適当に誤魔化している

だって どうだっていいって笑っても
まだ自分のことを愛したいんだって
もがいているんでしょう?


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"正解を選ぶのが楽になって"という言葉が書いてあるなら、社会の規範に合わせることをもうやめようよ、というメッセージが伝えられてると読めるよね、


でもそうやって、社会や他者の規範や思いじゃなく自分の思いや気持ちを押し出していこうとするとき、傷つけられたり損なわれたりする他者の心や権利があることもあるんじゃないの?


と言われたんだった。


今の時代色んなところで謳われる、


自分の主張を推すこと。


でもそれは、いつもそうであるべきって話じゃないんじゃないかと。その塩梅に気づけないと、タチの悪いジャイアンみたいなことになっちゃうんじゃないかと。


そしてそれは、相手を傷つけ関係を損なうことがあると。


〜〜〜〜


自分の心がある程度、自分や、他者の力によって癒され、守られてきて、以前より逞しくなって折れづらくなったことを体感するのなら、


"自分の非"が、どんな形をしていてどんなふうに具現化してきたのか、見ていかないといけないんだ…と気づいた。


見るのが痛い角度からも自分を見て、自分にとって"嫌なもの"と自分の共通点を認めて、他者があげてくれた声にちゃんと耳を傾けて、叫ばない。


私は悪くない、だって…!!!


と叫ばない。


ぬくぬくした関係性の中で心身を温められるのなら、それは、自分の非を認めて惨めで孤独で情けない気持ちを感じているときも、変わらずそこにある関係性だ。


私が自分の非を認めて一つずつ行動を改めるのなら、その"ぬくぬく"は、更に細かでしなやかでうつくしく凛とした状態に育まれていくのかもしれない。


さっき食べたものを吐き出したくなるくらい、そのまま叫び出したいくらい、相手の中に感じられている気持ちへの反発心が生まれる中で、自分の過失を認めるのは苦しい。


だって、だって、だって。

私にはこんなストーリーがあって、その文脈は…


って、言いたくなる。


でもそのストーリーや文脈で、他者が私から受けて痛みを訴えるその傷を相殺してしまってはいけない。


そこを、見ていきたい。変わりたい。


より良い関係を築きたい。


今年もまた一つ一つ、井戸掘りしたい。