誕生日プレゼントだということで
中野の韓国料理屋で焼肉を食べた。
だいたいにおいておいしかったが、「スンデ」という腸詰めは、ちょっとだけインパクトが強すぎた。
出し抜けにグッチのネクタイをもらった。
「30年後に似合うようになって♪」
悔しいから明日早速着用してやろう。
帰り道
いつも 通り過ぎてた古本屋の前で 猫の声がしたので入ってみる。
紫色の着物の店番がちょこんと礼をする。
押し付けがましくない程度に 本を置く人の意思を感じさせる本棚と値段。
久しぶりに あの 本を選ぶとき特有の
妙な高揚感にかられて しばし時を忘れる。
お会計
店番の女の子が
「私も朔太郎さんすきなんです」
と言いながら詩集に付箋を貼ってくれた。
「すぐ剥がしていいですから♪」
帰り道はなんとなくほくほくでした。
ジェームズ・タレル 南寺 建築設計:安藤忠雄 1999年 直島家プロジェクト
上も下もない 暗闇の中にぽっかりとほうりこまれたらどうしますか?
男の子は自分のカラダをつよくつよく抱きしめました
そうすれば 自分の存在だけは確かに感じることが出来るから
月の裏側は そのものよりもむしろ
実存の不確かさと 固体の存在の確かさを感じるためにある
・・ような気さえする。
1人ぼっち 無限の空間の中で 闇に包まれて 自分の存在を疑いながらもその鼓動を再確認する。
2人ぼっち 決して声は立てず お互いの存在に きっと感謝する。
すぐ外では子供たちが球遊びに夢中。
現実なんて そんな 不確かなもの。
- ともだちは海のにおい
- 工藤 直子, 長 新太(絵)
- 理論社 1984年
“ひとはみな
心のなかに
海をひとつ もっている
その 濃いみどりの海のうえに
ときどき ちいさな魚がはねて
ときどき ちいさなしぶきがたつ
ひとの心のなかに
いつ 海はうまれたか
おそらく むかし
―なにが悲しいのか
わからないほど ちいさく
なにがつらかったか
忘れてしまうほど むかし”
ひとはみな
はじめてまるい口をあけて泣いた
あのときの涙の粒が
海の はじまり
泣くたびに流れた
塩からい涙は
だれにも知られぬ場所に
あふれあふれ
―それはたしかに 悲しみの波
それはたしかに つらさのうねり
それはたしかに そうなのだが
ごらん いつのまにか
涙の海に 生まれてそだった
泳ぐものたち
笑い 歌い そして遊ぶ
泳ぐものたち
ひとはみな いつだって
塩からくて にぎやかな
海を 抱いて いるのだ”
南米の3つの国の境目にジャングルがあって
さらに奥に分け入ると唐突に滝があらわれます。
それがイグアスの滝
ちょっとしたレンズと腕をもっていないとこの通り、滝の全景すらファインダーに収められない巨大さ。
普段は昼間しか入れないイグアスは
実はフルムーンの日に限り
夜入ることができます。
出国が19日
フルムーンが21日
卒業式が23日
そんなこんなで後ろ髪を引かれながら
また来るよねって諦めたイグアス・フルムーン
そしてふと思い出しました
今日は23日 5月のフルムーン
ジャングルは月明かりに照らされて
イグアスがぽっかりと浮かび上がる日
せめても今日は満月の夜空を眺めてそんなイグアスに思いを馳せたいな
“恋人と呼び合える時間の中で
特別な言葉を幾つ話そう・・・”
って歌ったのはMISIAだったっけ?
気紛れに・・
時には世の中に特別な言葉しか話せない二人がいたとしたら?
あまりにも密度の濃い酸素ばかり吸ってきた彼らにとって、
本当に必要なのは「ありふれた日常」なのかもしれない。
お茶飲んで、映画見て、くだらない話で何時間も笑い転げて・・
当たり前の日常を生きていく怖さ、安易さ、難しさ、素晴らしさ、悲しみ、喜び、
そんなのを全部受け入れられるしなやかさを持ったオトナになりたいと思う、
そんな今日この頃です。
基本的に、日本においてNPO/NGO(含む学生団体)に対する世間一般のイメージやドメイン(事業領域)の不確かさの背景には、それぞれの団体がターゲットの存在を定義しきれていないことがあげられるように思う。
ごく単純化していえば、これは「誰のための組織なのか」という議論に終始する。
例えば、株式会社という組織は株主のために存在しているし※、政府機関は国民のために存在している。而してその目的は明確であべきである(しばしばそうとも言い切れない組織も存在するが)。
即ち、株式会社は株主に利益を還元するための方策が会社の指針策定の際にも最重要視されるのであるし、政府機関の場合は国民がその被益者の最たるものとなるのである※。
凡そ全ての組織にとって「誰のために存在しているか」という問いかけは常に為されねばならぬものである。それが、時に「自己満足のため」あるいは「発展途上国の人のため」などと漠とした存在意義しか定義できないのであれば、その公共性が確保されないのは当然のことである。
※ CSRという概念はこの単純構造に対しての疑問を投げかけている点で非常に興味深い。即ち、CSRは、企業を株主と会社の関係の構図として捉えるのみでは不十分であり、「企業市民」として社会の中でどのような役割を果たしていけるのかその社会的責任の果たし方を問うている。社会は多層構造であり、個々人も組織もその存在は一義ではないのである。
※ 諸政府機関については税金を預かる主体として、今後どれだけ被益者を明確化できるかが厳しく問われることを期待したい。公共性の確保されていない政府機関というのは、存在自体がすでに自己矛盾を孕んでいる。
※ この議論は、ふと先日企業経営をしている友人と話していたときに「NPO/NGOと事業として提携するのはリスキー」という話になった際にちょっと考えたことです。
決して正しいと答えとかが出るものではないので悪しからず。にゃあ。
“世界の果てには灯台があってね。
それは赤と白のしましまなんだ。
近くにはペンギンやぶきっちょなライオンみたいな変てこな動物がいて
いつもだいたい曇ってる”
なんていつか子供に話す日が来るのかもしれないな。




