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Be Fully Human

「日本とフィリピン社会により広く大きな貢献をする」ことをミッションにした青年による、その実現までの道のりを綴ったブログです。このブログを通して、ひとりでも多くの方が「ごきげん」に人生を送っていただければ・・・、そんな願いを込めてお送りします~。

2011年11月、宮城県名取市に着き、復興支援活動を再開しました。

 

それから名取市、亘理町という町の復興支援に携わり、その間に北上町に何度も訪れました。

僕はどうもNPO職員失格のようです。

目の前の仕事よりも、石巻、北上町に並々ならぬ情がはいってしまっているようで、
隙を見ては北上町に軽トラを走らせ帰らせてもらっていました。

そして住民の方々に声をかけて回りました・・・。

 

いつもまるで息子のように迎え入れてくれました。

 

「おかえり」って声をかけられた時、僕も故郷に帰ったような、そんな気になりました。

 

気にさせてくれました。

 

北上町の人、土地、景色、温泉、そして北上を目指して集まる人たち・・・。

 

この気持ちが「郷土愛」というものなんだろうかと、九州から遠く離れた東北で、感じました・・・。

 

あの町と、一生付き合っていきたいです・・・。

石巻での復旧活動に全力で駆け抜けてしまった僕は、疲れていましたが家でじっとしていることができず、「社会に出ないと」と焦っていました。

 

18歳の時から夢であった「教師になりたい」というよりも、もっと災害救助などに興味があるんじゃないかと思ってしまった僕は、NPOをネットで探し、東京のある団体に1ヶ月のインターンとして上京しました。

 

そこでもやはり震災関係の資料をつくったりしたのですが、一日中デスクワーク。

 

海外からの寄付金の数字とにらめっこ。

 

事務所で震災関係のことをとり扱うスタッフに聞くと、「わたし、被災地行ったことないから現状がよくわからないのよね~」って言われました・・・。

(あれっ??なんかハマらんぞここに・・・。)

 

お偉い方からは「NPOで働くなら企業で働いた経験が活きるのに・・・」と企業を1年弱で辞めた僕に斜めから目を下されました・・・。

 

(マジかよ・・・。あれだけ現地で走り回ってやったのに・・・。)

 

知らない業界に入り、自信がない僕は自分のやってきたことを全否定された気持ちになってしまいました・・・。

 

(なんやこれ・・・俺今まで何しとったとかいな・・・)

 

・・・

 

1ヶ月が終わろうとしていた時、僕は別のNPOの代表の方の講演会に行きました。

 

そこのNPOは「現場主義」といった感じでものすごく共感しました。

(NPOでも色々あるんだなあ~。)

 

震災当初から宮城県名取市に拠点を設け、復興支援を続けられていました。

(やっぱ俺は現場で駆け回る方がよか!)

 

さっさとこのNPOを出たいという気持ちが先走っていたのかもしれません。

僕は1ヶ月のインターンシップを終え、すぐさま後先考えずに、その「現場主義」のNPOに所属して再度、宮城県に戻ることにしました。

冬が近づく宮城県名取市に・・・。

2011年8月12日。

 

明日、北上町を出ようと決めた日。

 

その時の日記があったのでちょっと書いてみます。

 

「8月13日午前1時34分。真夜中の公民館の中で、この文章を書いている。

 

あと9時間もしたら、この町を出るんだ。

 

4月から約4ヶ月。ここ北上町で完了したニーズは106件。

 

俺の「日常」が9時間後、終わる・・・。

 

未だにここでやってきたことを自分の中で整理できてない・・・。

 

ただただ走った。

 

またこの地を離れた時に、見えてくるものがあるんだろう。

 

昨日住民の方々にお別れの挨拶をしに回ったが、中には目に涙を浮かばせてくれる人もいた・・・。

 

正直、信じられない。

 

明日、この町を離れ、いつもそばにいる人達、風景とおさらばすることが・・・。

 

それだけこの町と関わった・・・。

 

でも、「震災ボランティアをしていた時が一番輝いていた」と過去を振り返りたくない。

 

また新しい人生を送り始める時がきた。

 

不安や恐怖もあるし、何かとんでもないことやらかしそうな自分もいる・・・。

 

明日、笑顔でこの町を出よう・・・。

 

明日へ向かって・・・。

 

今後も、この町を訪れ、復興への道のりを見守りたい。

 

石巻市北上町の皆さん、ボランティアとして共に汗を流した皆さん、うまく言葉に表せられないけど・・・

 

「ありがとう」

 

この言葉以上の想いがある。

 

そんな想いを、伝える方法を知らない自分を許してほしい・・・。

 

明日、笑顔で、この町を出よう・・・。」

 

・・・

 

8月13日、僕ら長期でボランティアをしていたメンバーは手元にあったニーズ全て完了させ、石巻市北上町を後にしました・・・。
 

そして陸路をえっちらこっちら、数日後、僕は実家のある福岡へと帰省しました。

 

全力で駆け抜けた8ヶ月。

 

さすがに数日間は倒れ、何もできませんでした。

 

でもやはり遠くは九州といっても、北上町のことが気になりました・・・。

 

僕は宮城県石巻市という縁もゆかりも無かったまちで、数えきれないほどの多くのことを学んだようです・・・。

2011年8月7日。

 

ここ宮城県石巻市北上町橋浦。

 

ほぼ復旧作業は終盤に入りました。

 

現地で拾い上げ、完了してきたニーズは8月7日までで102件。

 

 

 

あと数日で現地での震災ボランティア活動を終えようと思いました。

 

この町を離れると思うとちょっと寂しい・・・。

 

本当にここでの住民の方々との触れ合いは一生ものになるんだろんだろうなあ。

 

ずっと繋がっていたい住民の方が何人もいました。

 

新たな故郷(ふるさと)が出来たような、そんな感覚がしました。

 

ここで共に時を送ったボランティアの方々との出逢いも一生ものになるんだろうなあ。

 

様々な職業、立場に関係なく「北上町橋浦」の復旧復興というベクトルに向かい、寝食共にしてきたメンバー・・・。

 

コムサデモードの元役員のおじさん。

 

千葉、浦安で被災した保育士さん。

 

沖縄移住に向け、看護学校に来年から通う元タイのスキューバーダイビングのインストラクター。

 

大阪から車で来たご夫婦。

 

神奈川県のログハウスの大工さん。

 

焼肉屋で働いていた埼玉県の女の子。

 

埼玉からオフの日にいつも駆けつけてくれた消防士チーム。

 

2週間に1回、東京で10数名の人を呼びかけ、ボランティアに来てくれるビジネスマンチーム。

 

大学時代、共に汗を流したラグビー部の同期。

 

昨年ヘルニア手術をしたにも関わらず、長期でボランティアに来てくれた68歳のケーキ職人とその奥さん。

 

佐賀から軽トラで来た元自衛官、トラック野郎のおじさん。

 

夏休み返上で来てくれたSE。

 

名古屋からの薬剤師さんとその娘さん。

 

インドでボランティアしていた時に知り合いになり、たまたま偶然、石巻で合流した女性。

 

福岡から駆けつけてくれた高校時代のラグビー部の監督。

 

いつも自分の担当地域に直接来てくれた千葉、京成バスのボランティアツアー。

 

東京都小平市の職人さん達・・・

 

職業や道は違えども、皆それぞれ大切にしていたものがありました。

 

皆それぞれ自分が出来ること黙々とやっていました。

 

それが社会のため、北上のためにひとつに繋がっていく光景を目の当たりにしました・・・。

 

誰が上とか下とかなく。誰が得するとか損するとかなく・・・。

 

「民主主義とは人が人をケアしようという精神から生まれた」とアメリカの教育者、ジョン・デューイが言っていました。

 

「あっ『社会』ってこういうことなんだな。」って大切なことに気がつきました・・・。

 

・・・

 

このまま北上に居続けることも出来るし、住民の人からも「ここに住め」とも言われました。

 

でも本来、震災ボランティアは消えていく存在なんだと思うんです。

 

被災地にいる被災者の方々が、元の生活に戻らないにしても、顔を上げて、腰を上げて、また新たな「日常」を送っていける兆しが見えたなら、僕らはすぅーっと静かに去っていけばいいんじゃないのかなって思ったりするんです。

 

僕はひとつの地域に密着してやっていたので正直、他の地域のことはあまり詳しく知りませんでした。

 

ただ北上町橋浦地区は、ボランティアの潮時だと感じました。

 

仮設のケアはまたそれ専門の団体が活動していて、業者、企業も入ってきていました。

 

(村の平安を祈り、この町をあとにしよう。残り数日も、普段と変わらず活動しよう・・・。)

 

一日一日、住民の方と交わす笑顔と挨拶が、なんだか尊いものに感じてきました・・・。

2011年8月1日、石巻市毎年恒例の花火大会が開催されました。

 

震災ということもあり、中止の声も多く挙がっていたようです。

 

花火大会は震災でひどく被害を被った旧北上川河口付近で行われました。

 

そこには津波で何も無くなった中洲、未だ手つかず状態の傾いた民家、壊れた橋等、震災の傷跡が生々しく残っている場所でした。

 

花火大会当日、ボランティア仲間と見に行きました。

 

今までに見たこともないくらいの人でいっぱいでした。

 

花火大会は「鎮魂」と「祈り」というテーマのもと、一発一発、想いが込もった花火が静かに打ち上げられました。


 

 

僕は静かにその花火を見上げました・・・。

 

どんどん花火が静かに打ち上げられていきました。

 

ひとつひとつ、悲しい花火でした・・・。

 

静かに流れていきました・・・。

 

・・・

 

そして、いよいよ最後の花火となった時、司会者の声のトーンが変わりました。

 

「今年最後の花火は新潟県長岡市からの贈り物です!長岡市長から手紙が届いています!」

 

新潟県長岡市。

 

日本で有数の花火大会のメッカであり、数年前、中越地震で被害を被った地域。

 

市長の手紙が読み上げられました・・・。

 

「・・・石巻の皆さん、この度寄贈させて頂いた花火はフェニックスという長岡市名物の花火であります。フェニックスとは「不死鳥」を意味いたします。我々長岡市も数年前、中越地震により瓦礫の山と化しました。しかし全国の皆さんに支えられ、我々は見事、復興を成し遂げました。石巻も、不死鳥のごとく必ずや、復興することを願っております。頑張れ石巻!負けるな石巻!・・・」

 

・・・

今まで見たこともないほどの大量の花火が打ち上げられました。

 

傾いたままの民家、瓦礫と化した町の上を、無数の花火が打ち上げられました。

 

夜空を覆い尽くすほどの花火でした。

 

涙が止まりませんでした。

 

見ていた人、皆泣いていました。

 

(このフェニックスの花火を作った花火職人の人、どんな想いでこの花火を作ったっちゃろう。どんな想いを込めて作ったっちゃろう・・・。)

 

考えるとまた泣けてきました。

 

花火が全て打ち上げられるとどこからともなく拍手が湧き起こりました。

 

いつまでも鳴り止まない拍手でした。

 

会場が一体となっていました。

 

・・・

 

打ち上げられた後の暗い夜空を見上げました・・・。

 

(必ずこの町は復興する。)

 

・・・

 

熱いものが涙と一緒にこみ上げてきました・・・。

2011年7月23日土曜日。

 

北上町橋浦に今までで最多の170人のボランティアが入ってくれました。

 

関東からの日帰りバスツアーで、中学生、高校生の姿を見たのは素直に嬉しかったです。

 

役場の人も、住民も手伝ってくれました。

 

初めてこの町を訪ねた時、地元の住民は疲れ切って、外に人影を見ませんでしたが、今は外でお喋りをしたり、畑を耕す姿も見受けられます。


今はまだ瓦礫が突き刺さる水田も、「来年はやる」という声が耳元に入ってきました・・・。

 

確実にここ宮城県石巻市北上町橋浦は、「復興」に向かっている実感を最近持ち始めていました。

 

まだまだなんだけど、その空気がたまらなく嬉しかったです・・・。

2011年7月。

 

活動している北上町橋浦。

 

毎日入れ替わり立ち替わりで、全国から世界から駆けつけたボランティアの方達と働きます。


埼玉からオフの度に来てくれる消防士チーム。

休日にも関わらず「人を助けるプロ」としてのプライドを持ち、いつもチームを組んで駆けつけてくれました。

 

「理想の消防士」を追いかける彼らの姿は本当に心強かったです。

 

別の日には美容師が全国から集まり、チームを組んで側溝の泥かきをしてくれました。

 

今風のお洒落な出で立ちで、普段は汚れることなど無縁のような職業の方達が、男女関係なく顔に手に足に泥をつけて黙々と働く姿は格好が良かったです。

 

石川県の土建屋さんチーム。

 

さすがに本職ということもあり、どんどんニーズを完了させていきました。

 

礼を重んじ、気骨がある方ばかりでした。

 

アメリカ、カリフォルニアから来た韓国人3世のクリスチャンチーム。

 

中には中学生や高校生もいました。

 

作業が終わると住民の方々に唄を練習した披露してくれました。

 

・・・

 

東北も梅雨が明け、いよいよ夏本番といった感じになってきました。

 

寝床も専修大学のグランドでのテント生活から、活動場所である北上町橋浦の公民館に移りました。

 

もうこの集落にべったり密着することになりました。

 

・・・

 

「お導き」という言葉があります。

 

ここに来るのも「お導き」なんでしょうか?・・・

忘れられた農村地域。

 


 

町を歩くとお爺ちゃん、お婆ちゃんしか見ない町。

 

若者といえば、ヘルメットをかぶった小学生くらい。

 

作業中、牛の鳴き声を聞くような村。

 

そんな町で、僕は人生を送っていました・・・。

 

道を歩き、木陰で休むお年寄りの方達と会話を交わしました。

 

ボランティアを終え、公民館までの帰り道、住民の方からキュウリの漬物を頂き、ボリボリかじりながら裏道を歩いて帰りました。

 

津波から生き延びた牛の頭を撫で、地元の子ども達と遊びました。

 

夜は公民館の近所のお宅に呼ばれ、夕飯を食べました・・・。

 
・・・


「今」という時を生きている実感がものすごくありました・・・。

 

バヌアツ、フィリピン、インド、そしてここ宮城県石巻市北上町橋浦・・・。

 

点が線につながっていく感覚がありました。

 

この部落のニーズもだいぶはけてき、お盆前には一区切り打てそうな感じがしてきました・・・。

震災から4ヶ月。

 

石巻にボランティアをしに来て約80日が経ちました。

 

7月11日、活動地域の北上町橋浦のちょうど対岸に位置する大川小学校に花をたむけに、初めて訪れました・・・。

 

その光景には絶句しました・・・。

 

校舎は壊滅、周りでは自衛隊の方が4ヶ月経過した今もなお遺体捜査を続けていました・・・。

 

2階の崩れた黒板の上に張ってあった「石巻市民憲章」に目をやりましたが、もう涙なしでは読めませんでした・・・。

 

献花台にあった七夕の笹の葉。

 

願いをこめた短冊には「3月10日に戻してください」って・・・。

 

消え劣ることがない深い悲しみが漂っていました・・・。

インドから帰国し、石巻で活動し始め、ちょうど2ヶ月が経つ時、僕は北上町橋浦地区という町を担当していました。

 

町はだいぶ片付いてきているが、まだ田んぼの中には無数の瓦礫が突き刺さっています・・・。

 

この田んぼを目の前に、今日も農家の人達と一日を過ごします。

 

「ほら、今年一年は田んぼダメだっちゃ。おらが時間かけて片づくから心配するなっちゃ。」

 

・・・

 

農家は強い・・・。

 

つくづくそう思いました。

 

よく「就活」となると一般企業、中でも大手企業に就職する人、またその中で働く人が、無条件に「凄い人」というマインドに僕は植え付けられていました。

 

4年制大学を卒業すると「サラリーマン」の道しかないように知らぬ間に教育されていました。

 

「社会人=会社で働く人」というものの見方しか僕はありませんでした。

 

では果たして「農家」は「社会人」ではないんだろうか?

 

・・・

 

大企業で働く人の方が「農家」よりも偉いんだろうか?

 

凄いんだろうか?

 

・・・

 

ここ北上町という小さな田舎町で、自分の中の価値基準が崩れていきました・・・。

 

どんな会社で働くか、どんな仕事をするかはあまり関係ないような気がしてきました・・・。

 

それよりも「自分が何者であるか?」という問いの方が、今、大事に感じます。

 

いや、感じさせられます。

 

果たして自分は何者なんだろう・・・。

気がつけばもう6月となっていました。

 

(この1ヶ月が終わると2011年も半分が終わったことになるったいねえ・・・。)

 

年末の退職から始まり、フィリピン、インド、そしてここ宮城県石巻市・・・。

 

目まぐるしく変わっていきました。

 

・・・

 

先週からずっと活動をしていた大街道地区から北上町という市街地から離れた農村地帯に活動場所を変えました。

 

北上川沿いにあるこの町もひとつの集落を残し、後は全壊。
 

集落ごと流されていました。


 

唯一残った集落も、ボランティアがこれまであまり入らず、お爺さんお婆さんだけでとか、家族だけでとかで家の復旧作業を行ってきた地域でした・・・。

震災後3ヶ月目になるこの地域は、人が皆疲れ切っていました。

 

終わりがみえない復旧作業に嫌気をさしていました。

 

僕はここで今野さんという68歳の農家の方と出逢いました。

 

移動した初日、たまたま道で出逢ったのですが、「この部落のために何とかしたい」という熱い想いをもった方と偶然知り合いました。

まさか今野さんとそれ以来、ずっと付き合いが続くなんて、その時は知る由もありませんでしたが。

 

ともかく、それからというもの、今野さんと一緒に町を歩き、ニーズを見つけ、ボランティアの団体の方々を調整する日々が始まりました・・・。

 

長閑なこの農村地域にも未だ傷跡が見受けられました。

 

やる仕事は主に広大な畑、田んぼの泥かき。


 

これは個人で来たボランティアだけでは到底出来ません。

なので毎日来る日帰りの団体に入ってもらい40人がかりとかでやってもらいました・・・。

 

日照りの中、何時間も田んぼの瓦礫撤去や畑の泥をかいてもらいました・・・。

 

心苦しかったけど、ここ北上町の「復旧復興」は、ひと掻きの泥かきから始まるんだろう・・・。