その昔というか2000年を前にあったゲノコン
不要不急の自粛制限とライブハウス実質禁止令
配信という形で無観客ライブがなされる今
ファン界隈では「ゲノコンが現実に…」とか言ってたりするけども
ラジオで「ゲノコンって…なんでしたっけ?ゲノムコントロール?ああ、ありましたね、そんなの」
とご本人は言ってたけど、あなたのそんなとこが好き。
ていうか、あの人過去に興味ない人だし。
目の前のことと先のことしか興味ないから、その時思ってなぜ発案したかってのはきちんと覚えてるんだろうけど
だからなんだ、タイプかな。
予言とは違うけど、ネット社会に対しての漠然とした予兆をキャッチして起こしたことかなと思う。
ゲノムコントロールは「可能が不可能になり、不可能が可能になる」っていうキャッチなんだけども
当時の私の感じてたことと言うか、思ってたきっかけは、ある意味東京近辺に在住するファンと地方のファンの格差
格差っていうか
やっぱり動員であったり、ツアーラストなんかできるには適切ってことで、東京、もしくは関東でのライブって多めで。
ツアーで地方はありつつも、ツアーじゃない単発ライブとかだと東京になるわけですよ。
となると
東京ばっかりずるい。
平等じゃない。
とかっていうね、変な平等主義が横行しだしたのが世紀末から2000年前半にかけてな気がする。
平等と自由をはき違えるというか
で、「平等じゃない」と言われると関東住まいの方は「じゃ、あんたたちも東京住めばいいじゃん」となるわけで。
そんなくだらないいざこざが微妙におきかけてた、ネットがやっと普及しだした黎明期
ネットで簡単に繋がりだすことで、そこが平等になり
そこが平等になることで、可能になることで、空間の不平等が気になりだして起こる不満
何かが可能になるということは当たり前に諦められてたことを我慢できなくなることなのかもしれない。
で、平等ってなにさ?
皆が同じラインにたつこと?
じゃあみんながライブの空間にいないなら平等?
じゃあやってみようか。
それって本当に平等なのかどうか。
平等ってどういうことなのか。
そもそも平等なんて存在するのかどうか
そして本当に平等であることがいいことなの?
幸せなの?楽しいの?
そんな思惑だと思う。
平等って最小公約数ですもんね。
無観客ライブで可能となり
ゲリラライブを唐突に行うことで不可能になる
とリンク先は書いてあるし、それもそうなのだけど
無観客ライブとゲリラライブを転向して行うことで
で、どう思う?
平等はユートピアだと思う?
順位もつけず、差もつけず
それが本当に平和なんだろうか?
それで本当にうまくいくの?
ってのが主旨だったと思う。
それがこの後でるアルバムに繋がっていくし。
しかし面白いのが
この騒動を終えて、長く、ファンもバンドメンバーも
無差別にいきそうに見えつつも、無軌道なファンがどんどん躾られていくという方向にいくわけですよ。
いまや、ファンは躾が行き届いてて、ホールでキリトがステージを降りようと、興奮して駆け寄るような人はいなくなってますし。
無意識に統制をかけることをみんなが心に持ったのかも。
あと危機に対する意識。
集団ヒステリーとは違う、集団意識なのかな。
ここで前述した
何かが可能になるということは当たり前に諦められてたことを我慢できなくなることなのかもしれない。
ライブに行くことすら不可能な今
平等であることを求めながら、平等では物足りず不平をもち
不公平を求めたあの時と違って
平等に見れる状況にすら楽しさを見出そうとしている
個の楽しみを更に集団でもっと楽しめるように
という不可能な中に現れた「みんなでオンラインでも楽しむ」という可能
何かが不可能になるということは受け身だったことが能動的になることなのかもしれない。
そして自分だけではなく、周りもみんなで、という社会性が育つのかもしれない。
今でも無観客ライブは物足りないけど、それでも最大限に
ネットのチャット上でエアーライブとして楽しめる位の意識変換ができる
それってゲノムコントロールの時にはありえなかった事象で
でもあの時、この意識の変換ができていればゲノムコントロールは完成させられたものでもあったと思う。20年経った今、ある意味完成をしようとしてる。
とか思ったんですよ。
不可能はクリエイティブさを助長し、社会性を助長するならば
不可能という素材は可能性の礎でありうることであって
可能ということは人の才をなくしていく原因でもある。
可能と不可能
だからといって不可能な状態がいいという訳でもなくて。
実は両表で常に存在するんだな。
自分の中で主旨はかけてるのだけど、これ以上書くと
段々文章が脱線していきそうなのでここらへんで。