罪と穢れ | 日々是…

日々是…

いわゆる私の独り言的な

昨日ウロウロしていて

名前に、存在に敗けた



白桃ゼリーシュー
負ける。そんな存在感示されたらえーんえーん

お腹一杯なのに食べてしまった。苦しい(だって賞味期限昨日だったんだもん)

桃と言えば穢れを払う果実

 

先日アマヲさんのクリアリングモニターに申し込んでみました
おまかせで。
なのに前哨戦のように前世とおぼしきものが出てきまして。
マリア信仰の方でしょうかというのを見て
いやーマリア信仰ならちがうし。と思い。

コメントでマグダラのマリアを信仰してたかも、でああ、それならありうるなあ。
そしてそれでちょっと色々とクリアになったかも。
ていうか。マリア像が沈んだ理由が少しわかりました。
私の心のなかで沈んでいったのだなと。

自分の価値観にも他人を美しいと思う価値観にも
光と闇は共に存在してるし
欲も快楽も知らないものを心底美しいと思うかと言われると思わないのに
なぜか自分には聖女という枠とか枷がある。
聖女になろうとしてるわけではないのだけど
聖女という枷にいつも責められているような
聖女が責めているのではなく、責めているのは自分

聖女っていうのはさ
結局欲に溺れる快楽も、欲故の苦しみもしらないし
愛なのか快楽なのかエゴなのか
そんな苦しみもしらない訳で。

私はそんなものに救われたりしない。
生まれつき貴い存在に何がわかるのか。
そう思いながら、そうあれればどれだけいいだろうと思うところもある。

それは今の自分も含めて連面と続く輪廻の中でずっとある意識だと思う。

いつからかわからないけど
神様は自分の中にしかいないし、誰にもそれを揺るがすことができない
という考え、というより信念がある。
10代ですでにあるから、ずっと子供の時からあるのだと思う。

なのに聖女の枷をもってるなんて矛盾してる。

やっと神は完璧なもの絶対的なもの
完全なる白で光である

という縛りを投げ棄てれたのかも
従順でなくてはならないという縛りを、
そんなものはゴミだと蹴飛ばしてふりを止めたことで
マリア像は陶器になって沈んでいった

のだと思う。

愛とかいう名前の檻から
とりあえず出たのだと思う。