沖縄に山入端(やまのは)さんという名字の方がおられ、非常にゆかしいと思う。
例の『枕草子』の冒頭、秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへ とあるし、まあ、あまねく知られている。※一番下に示す通り、山の端と山際(やまぎは)は違う。
しかし実際に山の端が‘切なるもの’として出てくるのは『土佐日記』のほうである。
八日、さはる事ありて猶同じ所なり。今宵の月は海にぞ入る。これを見て業平の君の「山のはにげて入れずもあらなむ」といふ歌なむおもほゆる。
二十日の夜の月出でにけり。山のはもなくて海の中よりぞ出でくる。かうやうなるを見てや、むかし安倍の仲麻呂といひける人は、もろこしに渡りて歸りきける時に、船に乘るべき所にて、
として、普通は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも」として人口に膾炙している歌を、青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かもとして(物議を醸して)いる。
そのすぐ後に
さて今そのかみを思ひやりて、或人のよめる歌、
「都にてやまのはに見し月なれどなみより出でゝなみにこそ入れ」
「都にてやまのはに見し月なれどなみより出でゝなみにこそ入れ」
と続けている。
要は航海技術の未熟な(しかも船は小さいし、帆もお粗末だったろう)この時代、船頭が山の端を見て位置を測ったり、また紀貫之一行は盆地のある、すなわち日が昇るのも沈むの山の端である、京と比較しているのである。
沖縄では地名や人名の西をイリ、東をアガリと読む場合がある。東江とかいてアガリエと読んだり、西崎とかいてイリザキと読んだりするのも、実にゆかしい。
