3月26~28日に木更津に。今回は休息重視なので、観光は2日目のみにとどめた。木更津駅西口側の廃れ感はたまらないが、いろいろ見るところはある。
観光マップを見ていると、与三郎というのが当たり前のように出てくる。
歌舞伎の「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の主人公のようだ。
知らん。知らんけど、とりあえず行ってみる。
見染めの松というのがある。与三郎がお富を見染めた松らしい。
話を知らんからなんのこっちゃと思いつつ、次の与三郎は光明寺。
ここに与三郎の墓があるらしい。で、誰?
その次は、選擇寺。与三郎の友達のこうもり安の墓があるとのこと。
さらに、誰? で、こうもり?
あまりにもやもや感がたまってきたので、木更津市立図書館に行って文献を読むことにした。さすがに何も分からんままというのは、たまらんので。
お手軽な解説本を見つける。漫画で紹介されているのを読む。
そしたら、「イヤサこれお富、ひさしぶりだなあ」。
このセリフは知ってる。歌舞伎そのものは見たことがないけど、こういうのはパロディーでコントに取り入れられることが昭和には多かったので。
なるほど、これが元やったんかと。木更津出身の長唄の家元の芳村伊三郎がモデルとのこと。だから、木更津はこれをウリにするのかと。
となると、与三郎って実在の人物やないやん。
その人の墓ってなんなん? 力石徹の墓みたいなもんか?
そしたら、河田陽(1966)『切られ与三郎と木更津』の説明で納得。
フィクションとして笑ってすませばいいことであった。
付記:以下、これを読んで納得したという説明の引用。
斗吟翁による説明
与三郎といいお富といい、所詮はそれまでの運命である。二人が背負って来たロマンチックの運命は、木更津という土地柄の情調にしっくり合って、ここに初めて渾然たる戯曲的一篇の情話が完成された。吾らは強いて、賤婦野人間の実歴をたずねんとするよりも情話化された伝説の保存が、一層意味あることと思う。なまじ詮索めいたことをして、伝説上の情趣を傷つけんとする暴戻を敢てしたくない。いうなかれ、愚夫愚婦の一痴話と、強ち義人烈婦、聖人君子のみがこの世の中の人間ではない。人の世の大部分は、このいわゆる愚夫愚婦で満たされている。達観すれば、枯れ木も山のにぎわいかな、愚人の愚挙、これも人生風致の一つである。
過去帳に記されている内容
与三郎病死につき、阪本屋源之助の墓に合葬、慈久行心と法名を授与するもの也。 文政七年二十四世日沾
ちなみに過去帳では、明らかに墨の色が異なり、あとから加筆されたことは自明であるらしい。住職も怪しさは気付いているようである。
そして、文政七年というのは、伊三郎の死んだと思われる弘化四年から二十三年前の話である。ただ、著者はこういう解明は余計なことをしたのかもと感じている。