お彼岸の今、安全保障関連法案が可決された件に想う事 | しょうかんのうだうだ

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仏絵師藤野正観(66)の備忘録・・・っといっても、ほとんどどこにも出かけないので、ふだん、ぐだぐだ思ったり考えていることを書き連ねることになるのは必至。

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2015年9月20日朝、大原野自宅付近にて

 


前の記事に続き、安全保障関連法案が可決された19日、もう少し丁寧に書いておきたいと思いましたので、この戦後70年においてそのレジームから、ついに脱却しようとする、その一歩ともなる憲法の解釈を変えたことの意味と意義を考え、誇りある独立国としての安保の在り方をもう一度しっかりと考えてみました。

「改正しなくても、敵が武力でもって侵略して来たなら個別的自衛権を行使し、自衛隊も武力で交戦できるじゃないか。」
なので、個別的自衛権のみで事が足りると法案反対派の人は言います。

集団的自衛権を否定する反対派も、当たり前のように個別的自衛の為なら交戦できる日本を主張していました。

「戦争反対!」 「徴兵反対!」 「可愛い子供に戦わせたくない!」 という普通の人々も個別的自衛を容認する反対派に融合していたようです。

いざ戦争になったら、個別的も集団的も関係はありません。ただただ自衛しないと負けるわけですから、平和時における仮想論戦ほどむなしいものはありません。自衛するということは、その戦いに勝つしかないということを先の戦争で学習したではありませんか。

そもそも、日本国憲法には、他からの理不尽な武力攻撃に対しても「武力行使で自衛してもいいよ」とはどこにも書かれていないのです。
「武器を作っても、持ってもダメとしか書いていないのだから、武装した自衛隊そのものもあってはならないし、いかなる武力戦争そのものもしませんよ」と、日本国自らが宣言していることになっているのです。

自衛隊は、何処から見ても、どう考えても軍隊ですが、目を瞑って軍隊ではないとしましょう。
日本に軍隊がないのならば、文民と軍人の区別はありません。したがって、自衛隊員は文民となります。
なのに、なぜ 第六十六条第二項には、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と、わざわざ書いてあるのでしょう・・・。

先の戦争に負けた時に、勝った米軍GHQが、敗戦濃厚になってもお国の為なら一致団結し、個の命を捨てることも厭わないなんとも恐ろしい日本人のために作ってくれた「二度と戦争ができないように縛り付ける為の憲法」を罰則として作ってくれたのです。
ただの、戒め、罰なのです。

「その代わり、基地さえ提供してくれたら、何かあったら俺たちが守ってやるよ。」というのが、条件でした。

しかし、朝鮮戦争勃発で、米軍は朝鮮半島に出兵するわけですから、日本国内がお留守になります。
日本の治安を維持する為に、GHQは日本政府に対して警察予備隊の設立と海上保安庁の8000人増員を指示します。

警察予備隊令公布(即日施行)第1条によれば、警察予備隊の目的は、《わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補う》とされたようです。

ここに7万5000人の警察予備隊が成立、これが自衛隊のはじまりです。


この時点で、すでに憲法9条で表現するところの武力を持たない使わない(戦争放棄と戦力の不保持)とは違う方向に、憲法解釈を考えざるを得ないことになります。

負けたとはいえ、戦勝国である米国の都合で、もてあそばされているようですが、この憲法はもともと、世界全ての国に適用して初めて戦争放棄と戦力の不保持が出来るようになるのですが、結果として、日本のみにしか実現し得なかったことで、当然ながら、日本国憲法9条の解釈に無理が生じるようになったのです。

1946年に今の憲法制定後、1950年に朝鮮戦争が勃発するまでのたったの4年程度でこの憲法の骨格であった平和維持の概念がひっくり返ることになります。

戦争をしない、武器を持たないということを完全に守るということは、「国を守る」こととは正反対のことと気付きます。
武力攻撃に遭遇したときに日本は国民や領土を守れないのです。

気付いたまでは良いのですが、米軍が基地を提供してもらっているものですから、その基地のある日本もついでにといいますか、当然ながら守ることになり、日本国民は米軍に日本の領土を守って貰うことにします。安保条約まで締結してその平和維持を米軍に託します。

この結果、米国は、日本国内に多数の基地を置き、与えた憲法で禁止したはずの武装した自衛隊と共同で基地を守ります。
そのことは日本の国土も守ることにもなり、安保という概念は、憲法のその概念とは相反する立場で共存して来ました。

共存して来たと書きましたが、平和を維持出来ているのは、米軍が与えた平和憲法のおかげではなく、米軍の基地があるおかげで、必然的に守られていることになっているだけなのです。
それを約束したのが、日米安保条約ですが、時代と共に世界の情勢に合わせ、その内容は少しずつ変化していきます。

この条約では、日米両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認するとあり、米国の与えた日本国憲法の骨格がここでも完全に無視されます。
しかし、これは、世界の情勢から見て仕方のない判断で、独立した一国の自衛という権利をはっきり明確にしています。

それでも、日本国民は、戦後の徹底的な平和教育から、この憲法を神から与えられた啓示のように崇め、日本国だけの平和を求めようとしたのです。

平和は日本だけが努力しても維持できるものではないと、うすうす感じながら、矛盾だらけの憲法を盾に、その汚れ役を、それを与えた米国に委ね、曖昧にして逃げることで良しとして来たのです。
国際的な貢献においても、「国際法上、集団的自衛権は保有するが、憲法上、行使できない」と、聞き様によっては都合の良いことばかり言って軍隊(自衛隊)を持ちながらも同盟国に汚れ役を任せて危険から逃げきたのです。

日本は、立憲国家を目指してはいますが、他の立憲主義の諸外国とは違い、優先順位として1に安保法、2に憲法、3に国際法といった順番で法律を順守するしかなかったのです。

ですので、日本政府としては、米軍が自国の基地を守ることで自動的に日本の領土を守ってくれることになりますから、いろいろな憲法での制約の中でも米軍に汚れ役さえ担ってもらえば、自衛隊は憲法下での活動協力も可能としてきたのです。

米国の与えてくれた平和憲法を守りますので、しっかり日本の領土(米軍基地)を守ってください。といった日米両国がお互いに都合の良いように、役割をとり決めてきたのです。

ですので、日本としては、戦後70年経っても相変わらず、敗戦国として自衛活動においては、米軍を母とした子供のように、身を守られながらの自衛活動を余儀なくされ、擬似独立国として装わなければならなかったのです。

この法案に反対した人達がよく言うセリフに「平和だったから、一人も犠牲を出さなかった」という理屈は違いますね。

ところが、この良好な状態があまりに長く続いたものですから、米軍との間に、他国にはない特別な信頼関係が生まれ出すのです。

米軍が領土を守ってくれているおかげで、日本は経済活動に専念でき、経済戦争に勝ち進んで、米国を凌ぐこともありました。
米国も日本の稼いだお金を頼りにするようにもなり、日米両国は、経済も政治も民主主義という同じ価値観を共有しながらの経済軍事共、世界戦略にはなくてはならないパートナーとなりました。

しかし、今ひとつしっくりいかなかったのです。それはなぜでしょう?

現憲法があるために、同じ価値観を共有しているのに同格でお付き合いできなかったのです。
このことは、与えた米国も感じていました。

また、先の大戦で、白人支配から開放した日本国を慕い応援してくれる東南アジア諸国(お隣の三カ国を除く)も、その嘗ての「誇りある日本」としての復活を望んでいました。

こうして、敵国同士であった日米は、70年の月日を経て、お互い信頼できる同盟国になったのですが、同じ価値観でお付き合いするには昔日本に与えた憲法が足かせになっており、軍事同盟を強固にするには、自衛隊の足かせを取り外さなければなりません。
かといって、70年ものあいだ大切に、神から与えられた啓示のように思ってきた、または、思わされてきた日本国民は簡単にはその呪縛から開放されません。

自由民主主義という守るべき価値観を共有できる国同士は、意見を戦わすことはあっても武力を行使するような戦争にはなり得ません。

今、その憲法という足かせを、安保というたいへん重要な自衛に関する憲法解釈で、むりやり剥がし取ろうとしてるのが、19日未明に決まった法案です。 憲法学者が憲法違反と言うのは無理もありません・・・が、これは憲法が制定された直後から始まっている矛盾でも有り、そのこともその学者たちは知っていますから、どうするのでしょうか・・・。

いづれ、こんな矛盾を抱えた憲法は、今を生きる我々国民の英知と意思で新しく作り直せばいいのです。

現憲法は、神から頂いた「お告げ」ではありません。独立した一人前の国を運営するには矛盾だらけなのです。

聖徳太子の時代からあった日本固有の「和」を機軸とした民主主義思想をはじめ、先人達の築いた素晴らしい価値観を否定せず、間違った歴史観やその概念を払拭することにより、日本人としての自信と誇りを取り戻すこと。
これ等をはじめ、戦争に負けたが為に日本人としての大切なものを置き去りにして失いそうになっているもの。
つまり日本固有の価値観(伝統文化)を復活させること。

これが戦後レジームからの脱却なのでしょうか。

これが、これからの政府の仕事になるのだと思いますが、共産党や民主党をはじめとした反対派野党では、今回の一連の国会討議を垣間見ていますと、できないのでしょうね・・・。

とにもかくにも、仕方ないとはいえ、今回の憲法を無視せざるを得ないという意味では強引とも言える安全保障関連法案の可決で、その矛盾だらけの縛りからは少しは開放されたことになります。

憲法解釈を変えただけですので、相変わらず、今までよりもより矛盾を抱えたままで現憲法は残ります。

ですので、やはり国民間で論争は起こるかもしれませんが、政府は、早い時期に矛盾のない正しい文言で、我々国民の平和に対する真の思いと現実に則した矛盾のない憲法に改正しないといけないと思います。