『哲学入門』(三木 清)の読書メモ | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

本家→「知識の殿堂」 http://fujimotoyasuhisa.sakura.ne.jp/

青空文庫
『哲学入門』

・世界は多にして一、一にして多という構造を持っている。人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作っていく。作られて作るものというのが人間の根本的規定である。

・常識の通用性はそれぞれの社会に局限されているのが常である。「ピレネーのこちらでは真理であるものも、あちらでは誤謬(ごびゅう)である」とパスカルは言った。

・見られた自己は、もはや見る自己ではない。主体はいかにしても客観化し得ぬものである。それは対象的存在でなく作用的存在であり、ラシュリエの言葉を借りると、判断の述語としての存在でなく繋辞(けいじ)としての存在である。

・客観としての世界においては、主体である人間はその場所を持たない。見られた自己はその中に入っているにしても、見る自己はそれに対してどこか外にあると考えられねばならぬ。しかしながら、「世界は深い」とニーチェも言ったごとく、世界は主体である人間を内に包み、これを超えて深いのである。

・「もし、われが汝(なんじ)に出会ったことがなければ、われは汝(なんじ)を求めはしないであろう」とパスカルは言った。

・「汝(なんじ)なすべし」という道徳的自覚は、自己が自己に、自己を汝(なんじ)として呼びかけることであるが、それは同時に逆に、かように呼びかけるものが、むしろ汝(なんじ)であり、自己が汝(なんじ)に呼びかけるのでなくて、汝(なんじ)から自己が呼びかけられることである。

・「デーモンの協力なしには芸術作品はない」とジイドが言ったごとく、われわれの表現作用の根底にはデモーニッシュなもの、大いなるパトス(感情)がなければならぬ。「世界におけるいかなる偉大なことも激情なしには成就されなかった」と理性主義者ヘーゲルでさえ言っている。