降伏しない日本軍・人命を軽視する日本軍という本質は、明治以来、何ら変わっていない | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

本家→「知識の殿堂」 http://fujimotoyasuhisa.sakura.ne.jp/

・第一次世界大戦やシベリア出兵などがあるが、ざっくりいって、明治維新後の日本の戦いは日清・日露・大東亜戦争という、3つの戦いに分けて考えられる(支那事変は大東亜戦争に含まれる)。そして、日清・日露戦争までの指導者はよくて、大東亜戦争の指導者はよくなかった、という、考え方が一部に存在する。
 俺としては、この理解の仕方について、疑問を覚える。
日本軍の徹底抗戦主義に限っていえば、日清・日露・大東亜戦争と、いずれの戦いも思想の根底は同じだからだ。
 一番、分かりやすい例が、日露戦争における、203高地の肉弾戦である。
 日本軍は湯水のように兵隊を投入して、膨大な戦死傷者を出している。つまり、すでにあの頃から、日本軍の人命軽視の体質は完全に出来上がっていたのである。
 大東亜戦争になって突然、降伏という選択肢のない、人命軽視の軍隊が登場したのではない。前回の日記にも書いたが、ましてや、『戦陣訓』が発布されたから、人命軽視の思想が広まった、というのも誤りだ。
 日本軍はもともと、降伏しない軍隊だった。
人命の犠牲をいとわない、悲壮な決意をした軍隊だった。
 日清・日露戦争は勝ち戦だったから、203高地などで膨大な犠牲者を出していても、それほど目立たず、大東亜戦争は負け戦だったから、包囲または孤立した部隊の膨大な犠牲者が目立つのだ。その違いといえば、前者は玉砕の例が珍しく、後者は玉砕の例が多々あった、というだけにすぎない。
 または、こうもいえる。勝ち戦においては降伏の選択肢を迫られることが少なく、負け戦においては降伏の選択肢を迫られる場面が数多くある、ということだ。その印象の差があるだけで、降伏しない日本軍・人命を軽視する日本軍という本質は、明治以来、何ら変わっていないのである。
 日本軍の徹底抗戦主義の弊害を指摘したいのであれば、日本軍そのものの体質を問うべきだ。日清・日露戦争~大東亜戦争という区分もないし、『戦陣訓』も関係ない。
 ただただ、日本軍そのものを批判すればよい。ただし、これも前回の日記で述べたように、史上まれに見る徹底抗戦主義を日本軍が採用するに至った経緯は並々ならぬものがある。
 日本軍の徹底抗戦主義はゆきすぎていたが、そうはいっても、それ以外の方策でもって、国を守れたかどうか、俺は確信を持って主張することができない。
 少なくとも、明治維新を成し遂げた日本は、そのように決心したということである。
 国家神道についても同じことがいえる。その弊害を述べるだけではアンフェアだ。どうして、当時の指導者層はそういう中心核でもって、国をまとめようとしたのか、その点について充分に思い至らないと、たちまちにして、手前勝手な悪口をののしるだけとなる。
 もっと、いってしまえば、同時代頃に勃興した共産主義も同様である。
 共産主義など、とんでもない、という主張は理解できるが、共産主義そのものは、文句なしの立派な思想である。これがもし、本当に実現できるのなら、人類にとって、これほど幸福なことはない。しかし、理想の実現はかなわず、独裁・収容所・大虐殺などを生む、ひどい結果となる。
 俺は共産主義に憧れている。しかし、現実的には無謀だった。そう思っている。
 さらに過激なことをいってしまえば、ナチズムにだって正義はある。
 ナチズムの駄目なところは数多くあるが、いいところもある。
 これは共産主義に通じるところなのだが、労働者に敬意を表したり、肉体を重視したりするところが好きだ。
 民衆あっての国家、民族という、素朴な魅力がある。
 もちろん、そうはいっても極悪なナチズムだから、本質的な部分で、この思想が崩壊していることは言うまでもない。しかし、肉体を重視するなどの幾つかの徳目を抽出すれば、魅力的な一面が確かにある。
 職業に貴賎なし、という考え方は、現代にも通じている。
 いや、現代よりも、汗をかいて働く労働者に対する偏見は、ナチスドイツよりも現代の方が強いように思われる。
 どんな思想にもそれなりの正義はある、と考えるべきではないか。それ故に、レッテル貼りして、全面否定するやり口は、あまりにも粗暴である。