絶対に負けられない軍隊 | キジバトのさえずり(鳩に執着する男の語り)

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・分かりやすく物事を説明するために、たった一つの要素でもって、全てを説明されてしまうことがある。
 日本軍の徹底抗戦主義がそうだ。
 大抵、『戦陣訓』がやり玉に挙げられて、『戦陣訓』の呪縛があったから、陸海軍の軍人はおろか、民間人までもが降伏しないで無駄死にした、などと、乱暴に説明されてしまう。
 違うだろう。
 『戦陣訓』があろうがなかろうが、日本軍はもともと、敵の捕虜になることを考えていなかった。
 「常勝」を前提にしていた軍隊だったからだ。
 だから、『戦陣訓』の呪縛などという理由でもって、日本軍の徹底抗戦主義を批判するのは適当でない。
 『戦陣訓』なんてものは、せいぜい、日本軍の徹底抗戦主義の一因であって、これが大本ではない。
 批判するのであれば、日本軍そのものの体質を糾弾すべきだと思う。しかし、同時に、当時の考え方を尊重する必要もあるから、その点を最大限に踏まえつつ、反省の材料にすべきである。
 俺としては、日本軍の徹底抗戦主義は、列強に囲まれた、唯一まともな独立国(非欧米国)として、負ければ即、植民地にされてしまうという中で培われた、「常勝」思想故のことだと思っている。
 さて、話は飛ぶが、日本の戦国時代を振り返ると、当時の侍は、日本軍ほどの徹底抗戦主義を採用していなかった。数多くの武士が敵に下っている。
 外様大名などという言葉があるとおり、敗れた側は、ちゃんと敵の威勢に屈服して、従っているのである。
 しかし、これが、帝国主義のただ中に放り込まれた、明治維新後の日本にあっては、敗れたら即、植民地という厳しい世界を歩んでいくために、ある悲壮な決意を固める。
絶対に降伏しない、という、徹底抗戦主義の軍隊を作り上げたのだ。
 現代の視点でもって考えると、降伏しない軍隊など、狂気の産物のように思える。しかし、逆にいえば、そうした狂気に至らなければ、日本は生き残れなかった、ともいえるのだ。
 それほどまでの厳しい世界情勢だったのである。
 隣国の中国や朝鮮に、日本は当初、こう呼びかけた。
「俺たちと一緒に戦おう。大アジアで連合して、欧米人を追い払うのだ。君たちも早く近代化を成し遂げて戦列に加われ!」
 と。
 しかし、中国や朝鮮は、この切実な呼びかけに、まともに応えてくれなかった。それどころか、日本の足を引っ張ることすら、彼らはやってのけた。
 結局、日本は、たった一国でもって、欧米列強に対抗せざるを得なくなる。
 そうした、絶望的な状況の中で、どうやって、国の独立を保っていくか、明治・大正・昭和の先人たちは、苦心惨憺、知恵を絞って奮闘してきた。
 それが日本軍の徹底抗戦主義と相成ったのである。
 俺としては、この日本軍の徹底抗戦主義を、十二分の同情心でもって理解している。
 確かに、日本軍の徹底抗戦主義はゆきすぎていた。
 この点については、反論しない。
 そのとおりだと思う。
 しかし、だからといって、そうした一大決意を欠いた日本に、果たして、列強の一員に加われるほどの存立がかなったかどうか、それはかなり怪しい。
 少なくとも、現代の視点でもって、当時の判断や思想を安易に批判するほど、俺は下品ではない。
 稚拙な非難はおこなわないで、粛々と、現代の視点から見て、改めるものは改める、ということでもって、歴史を学びたい。
 それが正しい理解の仕方ではないのか。
 偽善丸出しの平和主義者どもが、口汚く先人を罵倒するのは、たえられない。
 俺としては、連中に、こう言ってやりたい。
「お前たちは想像力がないのか。あの勇猛果敢な、戦国時代の侍だって、割合に降伏していたんだぞ。それなのに、長い太平の世を謳歌(おうか)していた江戸時代の日本人が、アヘン戦争の様相から全てを悟って、一斉に奮起し、明治の世を生み出した。そして、絶対に負けられない、世界戦国時代を生き残っていくためのすべとして、徹底抗戦主義の軍隊を作り上げた。後には、あの凶悪な共産主義とも対峙(たいじ)した。
そうした経緯を何ら踏まえないで、お前たちは、何を勝ち誇ったように、先祖をののしるのだ。それほどまでの狂気でもって、国を守ろうとした人々の魂の輝きが、お前たちには見えないのか。大体、お前たちに何があるというのだ。何もないだろうが! お前たちにあるのは、偽善と独善だけだ」