高野睦子です。
最近出会ったばかりの人の中に行くと「あつこさん」と呼ばれます。
昔からの知り合いの中にいるとやはり「藤衣さん」がメイン。
ややこしくしてるのは私なもので申し訳ないのですが、ここで問題は新しく知り合った方が「高野さんはお二人いらっしゃるのですか?」とあとから聞いてこられることが結構多い(笑)。
あつこと藤衣が交錯し、わけわからんとなるそうだ。ごめんなさいね。どっちでもいいです。
そして2人いたらいいと思うほど時間が足りません。
昨日は久しぶりにテキストを開いたけれど、もう頭真っ白。
さらにこの前のペーパーバックも読みたくてこれまたクラクラ。
気づいたら数時間経ってるもんね。
英文読解得意だったはずなのにほんと落ち込みますわ。
まあいい。
今朝ふと思ったことです。
人の悩みに触れるたびに「これ、誰かに話しましたか?」と聞きたくなる、または聞いています。
一人で抱えるのがどれほどのものかと思ってしまうから。
人に言っても解決にはならないかもしれないけど、やはり言うことで楽になると思う。
そしてなるべく近しい方に言えたらいいなと思ってしまうのです。
が。
人一倍気難しく繊細な私は「悩みを打ち明ける」ということにもかなり厳密なルールがあるということに気づいた。
悩み多き乙女だった頃から人に「打ち明ける」ことをし続けてきましたが、それによって傷つくこともたくさんあったのですよ。
もちろんそれは私の問題ですから、相手を責めるとかの話じゃないのです。
ただ、悩み抜いているのに正論バズーカ砲とかあるある。正解も正論もわかってる。けどできないから悩んでいるわけでね。
あとは前提条件を早とちりしたまま説教パターン。いや。その手は打ってますって、それもあれも手は尽くしてるんですってば…と思いつつもう諦めて「そうだね」と受け入れる時間。これまた相談したことを後悔する案件。
あとは「わかるー」の共感のやつ。
多分わかってない…というのもあるんだよね。
これも結構キツイのよ。
「絶対こうした方がいいよ‼️」も無理よー。もう大人〜アタシ。
というわけで相談を持ちかけている側の私のうるさいことと言ったら…一応反省しますが。
ただこんな体験を通して学んだことは、誰に何を相談するか?を決めているということ。
とてつもなく傷ついた時はあの人にしか言えなかったり、最後は笑いに変えていきたいときはあの人に言いたかったり、これは経験値で持っている。
だから本当にありがたいことに悩んだときに駆け込む寺がいくつかある私は幸せだと思う。
けれどね、この寺を確保するために何をしたか?
そこまで傷ついて体験したんですよ。
「あ、いう相手間違ったな」
「そんなに言わなくてもいいのに」
因幡の白兎状態の私にさらに塩塗るのか?くらいの厳しい言葉を今は望んでない。かと言ってただ甘やかされることも望んでない。
とかなんとか痛みを感じて身体で覚えた駆け込み寺(笑)。
悩みって一人で抱えなくていいと思うけれど、本当に心を許して打ち明けることができる相手を見つけるには、最初はトライしかないのかもしれない。特に大人になったら。
エラーもあるかもしれないけどそれでも抱えているものを果敢に誰かに打ち明けてみる。
そしたら驚くほど心癒される瞬間が訪れるから。
楽しいことをシェアできる人は結構いると思うけど、本当に心が痛んだ時、そのガラスのハートをシェアできる人はとても貴重だと思う。
それは探し当てるものなのかもしれません。
そして誰に対してでもできる、とは思わないけど誰かにとって私もそんな存在でいられたらという努力は続けたいと思う。
なんてことを思ったり。
そして派手に転けました。
白いスカートが血だらけ。
わたし、踏んだり蹴ったり😭
コーヒーとケーキの会。
次回は8月14日です❣️