日蓮大聖人御金言集より抜粋、批判顕正の部1
・「念仏」は無間地獄の「業因(ごういん)」なり。
「法華経」は成仏得道の直路なり。はやく浄土宗を捨て、法華経を持(たも)ち、生死を離れ菩提を得(う)るべき事。
・「浄土」の三部経は、釈尊一代五時の説教の内、第三方等(ほうとう)部の内より出でたり。
(華厳けごん・阿含あごん・方等ほうとう・般若はんにゃ・法華ほっけ、の順に、釈尊は説法していきました。)
ただしばらくの衆生誘引の「方便」なり。
・謗法(ほうぼう)(法をそしる行為)は多種なり。
はじめ小乗経が広まり、大乗経が広まる、これ仏法の流布の流れなり。
しかし、それに逆らい小乗経の教えに留まり高い教えに移らない者もいるこれ謗法なり。
また、華厳・方等・般若の諸大乗経を習う人々も「諸経」と「法華経」とを同等と勘違いして、
真実の教えである「法華経」へ移らない人々もこれ謗法なり。
たまたま「縁」あり、「法華経」を学ぶことができた者も浅識につけ、
世利をむさぼるがために思い違いをして、真実の経を捨て「権経(ごんきょう)(ごん、とは借りの意)」に帰る人もまたこれ大謗法なり。
かくの如きは、皆地獄へ落ちる「業」なり。
・末代の愚人の恐るべき事は、刀杖(とうじょう)・虎狼(ころう)・十悪・五逆罪等よりも、
権経の僧・尼を尊び、真実の教えを広める人を「徒党を組み」「集団になって」憎み嫌うことである。
これは、己の身に「悪鬼」が入りたることを己自身が気がついていないためである。
恐るべし、恐るべし。
いま、念仏(南無阿弥陀仏)や、邪宗の教えが残っているのは、
「法然(ほうねん)」の「選択(せんちゃく)集」に依(よ)るなり。
悲しいかな長い間、数百万の人、魔縁(まえん)にとろかされて多くの人が「正しい仏教」に迷えり。
謗(ぼう)を好んで正(しょう)を忘るる。
善神、怒りを成さざらんや。
円(純円、真に正しい心)を捨てて、
偏(へん)(邪な心、簡単な道)を好む。
悪鬼、頼り得ざらんや。
(その心につけ込んで、悪鬼は知らずに入り込み、人の心を壊していく)
釈尊説法は、先に「権経(ごんきょう)」を説いて次第に真実の「実経」へ説いていきましたが、
「どんらん」、「どうしゃく」、「善導(ぜんどう)」らは先の権経に囚われて、後の実経を捨てて仏教の底を探りませんでした。
なかんずく、法然の流れをくむ者達でしたが、仏教の源(みなもと)を知ろうとするものではありませんでした。
「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」の字を置いて、一切衆生(すべての人)の心を犯した者たちです。
あるものが問いました、念仏者は無限地獄に落ちると言われましたが、その理由はなぜでしょうか。
すると答えました、大きな理由は法然の「選択集」に依(よ)っていることであると。
仏の随他意(ずいたい)の教えである方便をねじ曲げ、本意の随自意(ずいじい)と名付けて、
他の教えを捨てよ、閉じよ、閣(さしお)けよ、抛(なげう)てよ、とうながし。
国中の無知の人々は、大風に草木がしたがうが如く、「方便の教え」で皆を止まらせ、「真実の教え(法華経)」にて随喜させることなく、
皆、ともどもに無限地獄に落ちていくわけである。
そもそも、「法然」が仏の教えを説くに必要な、「純円の機」、「純円の教」、「純円の国」を知らなかった。その失(とが)も多し。
真実を知らぬ者は、自分の道がどう進んできたか思慮する者も少ない。
置かれている状況が「どこ」で起こったのか。
「原因」と「結果」がどこから始まったのか。
人の命や心は誰しも始まりは「純円」なのです。
それに業が積み重なるために苦の出来事が起こる。
それを純円なものに戻し、それぞれがそれぞれの人生を生きて行けるようにするのが「真実の仏様の教え」なのです。