※正しい宗教と信仰

・信仰をしなくても立派な人はいるのではないか

 

まず「立派な人」とはどういう人を指すのでしょうか。

 

一般に、立派な人という場合は、「社会的に指導的地位にある人」、「名誉ある人」、「財をなした人」、「福祉活動や救済事業に貢献する人」、「社会的な悪と戦う人」、などがあげられます。

 

さらに広くいえば、名誉や地位はなくても毎日を正直にまじめに努力しながら過ごしている人々も「立派な人」といえるのではないでしょうか。

 

こうしてみると、「立派な人」といっても一定の基準があるわけではなく、他人を評価するときに主観的見地から用いる漠然とした言葉に過ぎないことがわかるでしょう。

 

では、信仰は立派な人間になるためにするのでしょうか。

 

それとも立派な人間になることとは違うところに目的があるのでしょうか。

 

結論からいえば、「正しい信仰」とは、「成仏」という人間にとって「最高の究極の境界」に到達することを大目的として修行精進することであり、

 

その仏道を修行することによって、一人ひとりが人間性を開発し、練磨し、身に福徳を具えていきますので、その過程のなかでおのずと「立派な人間」がつちかわれていくのです。

 

日蓮大聖人は、

「されば、たもたるる法が第一ならば、持つ人もしたがって第一になるべし」

 

とおおせられ、信ずる法が正しいゆえに人も立派になるのであると説かれています。

 

ですから「正しい信仰」を持たずに、単に眼前の名誉や地位、あるいは財産、学歴などをもって、それで仏の御意にかなう人生になるわけではありませんし、

 

そのような表面的な要件がそろっているからといって真実の絶対的幸福が得られるわけではありません。

 

大聖人は、賢人について

「賢人は八風と申して八つの風におかされぬ者を賢人と申すなり。

 

利(うるおい)、衰(おとろ)え、やぶれ、誉(ほま)れ、称(たたえ)、そしり、苦(くるしみ)、楽(楽しみ)なり。」

 

と仰せです。

財産や、名誉、地位、悦楽、などによって喜んだり、落胆したりすることは世の常ですが、これらは世間の一時的な八風であって、この八風に侵されない賢人になるためには、

 

より高い理想と教え、すなわち身心に強い信仰を体して仏道精進を志す以外にないと教えられています。

 

この「八風」に侵されない賢人こそ「立派な人」というべきではないでしょうか。

そのためには生命の奥底から浄化し活力を与える正しい仏法を持つべきなのです。

 

大聖人は、

「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願わくば今度人間に生まれてきたなら諸事をさしおいて「仏」「法」「僧」の三宝を供養し、後世(ごせ)菩提(ぼだい)を助からんと願えども、

 

たまたま人間に生まれ来たる時は、名聞名利(みょうもんみょうり)(世間の風や自身の過去・現在からの業と欲)の風は激しく、仏道修行のともしびは消えやすし」

 

と戒められています。