※御書より文章を抜粋
「新池御書」パート2
守護の善神、この国を捨つること疑いあることなし。
昔、釈尊の御前にして「諸天」・「善神」・「菩薩」・「声聞」ら、それぞれに誓いをたてさせ給いて、
もし「法華経」の「御敵」の国あらば、
または六月に霜霰(しもあられ)となりて国を飢饉(ききん)させんと申し、
または、小虫と成りて五穀を食(は)み失わんと申し、または、旱魃(かんばつ)をなさん、
または、大水と成りて田園を流さんと申し、
または、大風と成りて人民を吹き殺さんと申し、
または、悪鬼と成りて悩まさんと面々に申しさせ給いき。
今の「八幡大菩薩」もその「座」におわせしなり。
争でか霊山の起請(きしょう)の破れるのを恐れ給はざらん。
起請(きしょう)を破らせ給はば、「無間地獄」疑いなき者なり。
恐れ給うべし、恐れ給うべし。
(起請とは、仏等に誓いをたて、それを破れば罰をこうむると書き表したり誓いを立てること。
おそらく、霊山において立てた誓いを破れば「諸天善神」といえど例外なく罰をこうむるであろう、恐るべし・・という意味ではないかと拝します。)
善神、「社(やしろ)」を捨て天に上ってしまったが、身命を惜しまぬ「法華経」の行者の上には、霊山の約束そのままに、降りてきて力を貸すだろう。
この経(法華経)をよく信じていけば、「命終のとき」千の仏が迎えにきて、霊山浄土に走りまいり、自受法楽(じじゅほうらく)すべし。
けれども、信心弱くして「成仏」が延びたとしても、某(それがし)(日蓮大聖人)を恨んではいけない。
たとえば、医師が病人に「良薬」を与えているのに、その者が好んで、もしくは隠れて、「毒」を飲んでいたために「病」がなかなか癒えない。
それなのに、自分の「失(とが)」とは思わず、気づかず、医師を恨むが如くなるべし。
この経(法華経)の信心と申すは、少しも「私(わたくし)」を加えず、経文の如くに「人の言葉を用いず」、背くことなければ「仏」に成り候ぞ。
南無妙法蓮華経、と唱え申して候らえば、自然と「三十二相八十種好」を備うるなり。
「如我等無異」と申して、釈尊ほどの仏にやすやすと成り候なり。
たとえば、鳥の卵は始めは水なり。
その水の中より、誰かなすともなけれども、クチバシが出来、目が出来、飾りが出来てきて、虚空にかけるが如し。
われ等も、「無明の卵」にして、あさましき身なれども、南無妙法蓮華経の唱えの母に暖めまいらせて、
三十二相のクチバシが出でて、八十種好の鎧毛(よろいげ)が生えそろいて、「実相真如」の虚空にかけるべし。
すべての法門を悟った、と言っても「信心なき者」は成仏すべからず。
ひとつも理解できないという者でも、「信心ある者」はいずれ仏となるだろう。
これ、この経(法華経)の意(こころ)なり。
私の言葉にあらず。
舎利沸(しゃりほつ)もこの経を受け持ち、信心強盛にして「仏」になれたのだ。
「己が智慧」にて仏になれたのではない、と説き給えり。
(釈尊の弟子の一人である、智慧第一といわれた舎利沸。
智慧者と言われた舎利沸ですら、真に人を救えず、仏にも成れなかった。
法華経の功徳をもってようやく出来たというわけです。
では、神通力すらない凡夫は、法華経以外にして、いかにして仏になれるでしょうか。
邪宗の僧が真に人を救えず、法門に迷い、また影響を受けた人も人生に迷い苦しんでいるのは道理といえましょう。)
末代の衆生は、法門を少々心得ているため、僧をあなどり、法をないがしろにしているため、悪道に落ちていると説き給えり。
法を心得たるしるしとは、僧を敬い、法をあがめ、仏を供養すべし。
後世を願わん者は、名聞名利を捨てて、たとえ卑しき者であっても「法華経」を説く者であったなら、生身の如来の如くに敬うべし。
これ、正しい経文なり。
