陳舜臣(著)『小説十八史略』の大好きなエピソードです。
AC600年頃、7世紀前半、中国大陸では、騎馬民族である鮮卑族の王朝の随の末期、国土は大いに乱れました。
唐の太宗・李世民は、騎馬民族である鮮卑の貴族でした。
天才的な武将であり、政治家としての抜群の才にも、恵まれていた李世民は、乱世に頭角を現します。
李世民の父親の李淵は、隋の文帝に寵愛され、要職を歴任します。
617年、太原留守に任ぜられた李淵は、挙兵を決意します。そして、長男の李建成を左領軍大都督に任じ、次男の李世民を、右領軍大都督に任じ、隋に攻め込んでいた、突厥軍(トルコ人)を味方に引き入れて、長安攻略に向かいます。
洛陽で隋の皇帝煬帝は殺され、長安を攻略した李淵は、一旦擁立した隋の皇帝から、618年の禅譲により唐の皇帝を名乗ります。
乱世は続き、619年11月、秦王となった李世民は、結氷した黄河を渡って、宋金剛軍の討伐に向かいます。李世民の巧みな戦術と果断な指揮により唐軍は大勝利をします。
宋金剛軍には、尉遅敬徳(うっち けいとく)という猛将がいました。
敗残兵を集めて、介休城にこもって、防戦しますが、唐の猛攻には耐えかねて、八千人の部下とともに投降します。
人材不足の唐は、敵対した宋金剛軍の降将も自軍に組み入れたのですが、逃亡者が続出します。不信にかられた、唐の将校達は、勝手に尉遅敬徳を監禁し、李世民に、裏切る前にさっさと処刑することを進言します。
李世民は、尉遅敬徳を連れてこさせます。
<<尉遅敬徳が来ると、李世民は彼に黄金を与えて言った。
「わたしはおまえと意気投合している。おまえのことを、あれこれと言う者のことばを、わたしは信じない。けれども、おまえも口惜しい目に遭っている。どうしても唐軍から去りたいのであれば、これを旅費にすればよい」
尉遅は黙って金を受け取ったが、唐の軍営にとどまったままである。
ある日、李世民が僅か五百騎を率いて、洛陽郊外の北茫山にある北魏宣武帝の陵に登った。洛陽を偵察するためである。そこを鄭(王世充)の大軍に囲まれてしまった。
鄭の猛将単雄信が馬上に槍を構え、まっしぐらに李世民にむかってきた。そのとき、
「うぬ、下郎め!」
大音声とともに、躍り出た一騎は、ほかならぬ尉遅敬徳であった。槍の穂先がひらめくと、単雄信の馬は横倒しになった。単雄信は落馬した。尉遅敬徳は急いでとって返し、李世民をかばって、その場から脱出したのである>> 陳舜臣(著)『小説十八史略 5』
颯爽とした、尉遅敬徳が素晴らしいです。