続・鳥取城

 

 

向こうが登山道

 

こちらが八幡宮跡

 

本殿跡と思われる

 

 

本殿跡の先に見える登山道

山頂は標高263m

天球丸の標高が51mなので佐和山城(約232m)を登ったことを考えれば

そんなに時間かからず登れるとは思うんだけど…

…変なものが出そうなのでやめておきます。

振り返ると後から登って来た人がそのまま登山道を進んで行きました。

ご武運を祈る…

 

凄惨極まりない鳥取の渇え殺しで成仏できなかった魂がそこら中を彷徨ってるかもしれんですよ…

 

鳥取の渇え殺しとは

天正九年(1581年)に起こった鳥取城の戦いにおいて、

秀吉が行った日本史上有数の冷酷且つ残酷な兵糧攻めを揶揄して後世にそう呼ばれたもの。

手始めに秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲し、 周囲に付城を築いて陸路・海路を完全に封鎖。

続いて周辺地域の米を高値で買い占め、城内の兵糧の確保が出来ないように工作する。

通常の売値の数倍で買い取ったそうで商人は喜んで売ったとか。

更に包囲網内の村々を襲撃して住民を城内へ追いやり、城兵1400人に加えて逃げこんだ住民が2000人。

城内には20日分の兵糧しか備蓄がなく、これによって兵糧の更なる消費に拍車をかけさせる。

敵側に疲労が見られたのを機に鳥取城の支城である雁金山城・丸山城のうち雁金山城を宮部継潤に攻め落とさせ、これを占拠。

雁金山城の敗残兵や近隣の住民も鳥取城へと逃げ込み飽和状態となる。

雁金山城は鳥取城と丸山城の中間に位置していたため、兵站は断ち切られ鳥取城は完全に孤立。

海路からの毛利軍の兵糧搬入もことごとく阻止し、城内の兵糧は瞬く間に尽きてしまった。

家畜や植物なども食い尽くされ、遂には餓死者が続出。

これに対して羽柴軍は織田家の迅速な輸送のおかげで食糧事情は万全。

・鳥取城から見える位置で兵達に食事を摂らせる

・日夜問わず鉄砲を撃ちかけられる

・威力偵察を間断なく行う

…等、極限状態まで追い込み精神的拷問を徹底した。

餓鬼のように痩せ細った人々が城の柵際まで来て助けを請い、

兵士達もその姿に同情したとされるが、主命によって柵の外へ出ようとする者は鉄砲で容赦なく撃ち倒された。

その遺体に城内の飢えた人々が刃物を持って群がり、人肉を奪い合うという地獄絵図が繰り広げられ、

栄養価が最も高い脳が真っ先に剥ぎ取られたという記録まで残っている。

城主・吉川経家は四ヶ月もの間、耐え抜き籠城し続けたが、遂に降伏。

自身の切腹と引き換えに将兵の助命が聞き入れられ開城した。

開城後、飢えた人々に粥が振る舞われたが、ここでもう一つの悲劇が。

長期間の飢餓状態にあった人々が急激に炭水化物を摂取したことでリフィーディング症候群を引き起こしたと言われており、命を救われたはずの多くの人々がその場でショック死してしまったという。

 

秀吉は経家を称え、森下道誉・中村春続のみ自害させ、経家は帰還させる意思を伝えるも経家はこれを拒否。

秀吉の下に届けられた経家の首を見るなり男泣きしたとされ、安土の信長の下に送られた首は丁重に葬られたという美談も伝わるが…

経家は腹心の森下道誉・中村春続の助命を嘆願したが聞き入れられず、

「因幡一国に戦乱を招いた罪」「主君への裏切りの罪(織田方に降伏した前城主・山名豊国を追放)」

として自刃させられる(城主が腹を切るのと引き換えに家臣は助命するのが戦国時代暗黙のルール)

丸山城を守った奈佐日本之介、塩冶高清、佐々木三郎左衛門の三名も経家から再三にわたり助命するよう嘆願されるが

「海賊・山賊行為を働いた罪人」として自刃させられる(鳥取城の家臣ではないとしたのでしょう)

経家が帰還を拒否したのは家臣の助命嘆願が叶わなかったからなのではないでしょうかね。

 

三木の干殺し、鳥取の渇え殺し、高松の水攻めと呼ばれる秀吉の三大城攻めの一つに数えられ、

その中でも鳥取の渇え殺しが最も残酷で人道を外れており、後に表面化する秀吉の残虐性が垣間見える…

以前の創作物ではこういった秀吉の残虐性からは目を背け、人たらしで庶民的なイメージを前面に押し出した良いヤツとしての描かれ方が多かったが、

近年ではこういった残虐面も包み隠さず描かれる傾向にあるので万人のイメージする秀吉像も変わりつつあるなと実感している。

今年の大河は主人公サイドなのでさすがに残虐面は出してませんけどね。


秀吉の悪い面ばかり書き連ねたが、経家にも大きな問題があるわけで

城内には何の罪もない領民たちが逃げ込んでいたにも関わらず四ヶ月も頑張らないで補給が絶望的になった時点で降伏するべきだったと思う。

食料が尽きる前に開城していれば無用の餓死者も出すこともなく、地獄絵図にも発展しなかったわけだ。

後の高松城における清水宗治の潔さと比べるとどうにも見劣りしてしまうわけですよ。

何かと鳥取の渇え殺しばかりにスポットは当たる鳥取城ですが、

その8年前の天正元年(1573年)には尼子再興軍による鳥取城の戦いが起こっている。

当時の城主は毛利方の国人・武田高信。

鳥取城の地の利を生かした籠城戦で双方が鉄砲・弓矢を打ち合うだけの膠着状態となるが、

尼子軍の山中鹿介はこれを打破するために兵を一斉に隙間無く並べ下から攻め上らせる。

武田軍の注意をこの兵に引きつけている間に一部の兵を山麓の城下町へと迂回させて城を攻撃させ、

予期せぬ方向からの攻撃に対処できず武田軍は敗北し、山麓の陣を引き払って城内へと退却する。

山麓は尼子軍によって占拠されるが、武田軍が本丸に陣を敷いて防御を固めたため容易に攻め入ることができなかった。

正面攻撃では落とせないと判断した鹿介は周囲の地形を調べあげ、山の尾根づたいに進めば城の搦手側に出られることを発見する。

突破口を見つけた鹿介は囮となる主力の部隊を城の大手側から攻撃させ、自らは別部隊を率いて搦手側から本丸を急襲。

武田軍は再び予期せぬ方向からの攻撃によって本丸が攻略される寸前まで追い込まれるが、

各所の陣を引き上げ山頂にほど近い十神の社に集結して防戦。

武田軍の必死の抵抗により尼子軍は攻撃を中止し城下まで退却している。

尼子軍は引き続き城を包囲して圧力をかけ続けたところ、城内から逃亡者・投降者が相次いだため

高信はこれ以上の戦闘継続は不可能と判断して開城する。

戦後、鳥取城には前述した山名豊国が入り、尼子再興軍は私部城に入り因幡攻略の拠点としている。

 

では、戻ります。

 

天満宮跡真下の階段から天球丸・三の丸方面

 

一段下の帯曲輪から二の丸方面

 

もう一段下の帯曲輪から天球丸・三の丸方面

 

表御門の石垣から

 

風呂屋敷御門前から表御門へ通じる階段。

道幅狭くて危ないなぁ…と思いながら振り返る。

この時、後に恐ろしい目に遭うとは知る由もなかったのだ…

 

表御門前へ。

 

 

表御門跡(東側)と奥に菱櫓跡

 

振り返って今下りて来た風呂屋敷御門前に出る階段。

 

表御門前から天球丸

 

 

表御門の石垣を下から

 

天球丸下段へ。

 

もう一段下には紅葉御殿跡の帯曲輪。

 

天球丸下段の北西側から全域

 

巻石垣

 

楯蔵跡

 

 

楯蔵跡の上から南方面。

下の曲輪の石垣が宮部時代のものらしい。

 

南東側に三の丸跡。

三の丸は現在、鳥取西高校の敷地になっています。

 

北西側。

 

北側は山頂が拝めるが、角度の問題で天守台は見えない。

城の東側はTHE中世城郭な縄張りで梯郭式にはなっていませんので

再び大手へ戻る

一段下の紅葉御殿跡前。

短管パイプ組まれて通行禁止…

 

表御門の真下。

 

太鼓門櫓跡から振り返って大手道。

 

大太鼓門櫓跡

中ノ御門に続くかなり大きな門櫓だったそう。

 

反対側の北西側の櫓台から南東側の櫓台

 

 

この先が三の丸ですが、前述したとおり学校の敷地になっています。

三の丸は池田長吉の時代に造られた曲輪で

後の池田吉泰の時代に更に拡張されて三の丸御殿が建てられたそうです。

二の丸の御殿がすぐに再建されなかったのはつまりそういうことらしい。

 

三の丸側から左に太鼓御門跡と右に大手道。

 

太鼓御門の虎口

 

太鼓御門の櫓台

 

 

こちらにも仁風閣の入口が。

 

 

宝隆院庭園と仁風閣

宝隆院は第11代藩主・池田慶栄の正室。

若くして夫を亡くした宝隆院を慰めようと、養子の慶徳が造った池泉回遊式の日本庭園。

左に見える建物は宝扇庵(旧扇御殿化粧の間)で唯一残った城の建造物の一部ですが、完全にスルーしていたッ!!

 

仁風閣は完全に覆われてるので見えませんが…

確かにこれは日本庭園から洋館が見える素晴らしい景観だろうなぁ…

 

更には二の丸、山上ノ丸も一望できる。

 

来た道を戻り、三の丸脇の復元工事現場。

フェンス越しに覗く

 

これはあれか。学校があるので平日は工事しないんだろか?

 

中央に見えるのが城内唯一の切込石垣。

これはまだまだかかりそうな気がする…

 

ついに見えた中ノ御門。

2026年現在、この辺り一帯が復元工事中の対象だそうです。

 

表門のみ完成し、

付随する渡櫓は復元中だそうです。

 

土塀と武者溜まり

 

 
土塀と内堀

 

古絵図を見ると左右の石垣の端まで続く長い多門櫓になっているので

左右の櫓も復元されて完全な姿になる様です。

 

内門へ。

 

中ノ御門の桝形

 

外門

 

振り返って内門

土塀があるので桝形内からだと完全な姿に見えますがね…

 

擬宝珠橋

城郭復元橋としては国内最長(長さ約37m、幅約6m)だそう。

 

内堀(北西)

 

内堀(南東)

 

擬宝珠橋上から

 

擬宝珠橋の前から内堀(南東)

 

擬宝珠橋の前から城郭全体

 

擬宝珠橋の前から内堀(北西)

 

頑張れば見える山頂の天守台。

 

このマップを見ると鳥取城の隣の山が太閤ヶ平なんですよね…

隣の山に本陣を敷いていたとは…

 

博物館方面へ戻り

 

北ノ御門跡

 

北ノ御門の櫓台(南東側)

 

北ノ御門の櫓台(南東側)

 

一周して博物館前の登城口へ。

 

駐車場から中仕切門

駐車場は城代屋敷と上厩跡だそうです。

 

以上、鳥取城でした。