2026年5月14日、本年春の旅行です。
同年中に記事を書ける日が来るとはなぁ…w
一時期は3つもストック溜まって下手すると二年前の旅行について書いてましたからね。
リアルタイム旅行記
いつもの千歳空港内時間潰し。
いつもの1/12ガンダムさん
いつものオリジン版ガンダムさん
いつもの1/12シャアザクさん
毎度の如くガンダムベース開店時間に出立なので今回も入れんわけですが…
次回、今秋の旅行は少し遅い時間の出立予定なので遂に入れる時が来るかもしれないッ!!
丁度8時になったので展望デッキへ。
なんか主翼がものすごい変な形してないかと思ったら
飛んでる姿が普通だった。
見る角度の所為だったらしいw
プロペラ機
奥のデカいヤツとあまり変わらん様に見えるこのサイズ感よ。
プロペラ機離陸
迫りくるデカイヤツ
デカイヤツが搭乗口へ着。
…もしかしてこれに乗るのでは?
しばらく時間潰してお時間です。
乗り込んだのはやはりさっきのデカイヤツでしたw
離陸…
だが空は…
やっぱりな真っ白け
突き抜けて雲の上へ
羊蹄山の頭だけが見える
見渡す限りの雲海なので寝る
気付けば大阪上空
やたらデカイダイハツがあると思ったら本社でした。
そして、緑看板を見るとこの先にあるICは長岡京ICというらしい。
長岡京跡地なんでしょうな。
太陽の塔の前を通るもカメラセットする前に走り去ってしまった…
昼飯時なので桂川PAへ立ち寄る
食券の番号が205番だった
205と言えば…
在りし日の我が相棒
形式番号ST205 セリカGT-FOUR
ホテルの部屋番号が誕生日番号だったこともあったし、
何かと縁のある番号を引き当てることが多い。
本日の昼食
長岡京跡地の看板を発見。
この辺りは邸宅地跡だそうで、大極殿跡はもっと市の中心部の方だそう。
というか、そもそも街の名前が京都府長岡京市ですからね。
ご覧の通り
遺構も何もあったものではありませんがw
土塀っぽい壁で一応それっぽくはなっている。
因みに長岡京ICはこちらとは反対方面でして、
SAの手前にあった大山崎ICを北西方面に進んだ先らしい(こちらは北東方面)
更には大山崎ICを長岡京IC方面に進むとすぐに山崎合戦古戦場があるらしい。
なるほど、それで大山崎というのか。
一路、京都市へ。
道なりに走ってるとなんと東寺が!!
現存建築で最大の高さ(54.8m)を誇る国宝・東寺五重塔!!
駐車場もあるし、折角なので立ち寄らないかと提案するも却下される。
そして、これ完全に今気付いたんですが…
立看をよく見ると令和8年4月25日〜5月25日、東寺五重塔特別公開の文字がッ!!
えー、はい。五重塔の中に入れたそうです。
う~わ~…もったいねぇ~~~…
やはり立ち寄っておくべきだった…
旧前川邸
文久三年(1863)年から約二年間、壬生浪士の試衛館派(近藤一派・後の新選組)が寄宿していた屯所のひとつ。
しかし…
開いているのは土・日・祝のみでして…
本日、木曜日なので閉まってます。
前川邸の室内図
山南敬助切腹の間や土蔵の拷問部屋(古高俊太郎へ執行)も残っているそう。
そして、芹沢鴨暗殺の際はこの土蔵の二階から八木邸の様子を伺っていたそうな。
現在は板張りになっていますが、ここに出窓があったそうです。
この出窓は山南切腹の際に
永倉新八の配慮で馴染みにしていた島原の芸妓・明里と引き合わせ別れを惜しんだとされますが…
創作の可能性が高いそうです。
前川邸から数10m先には八木邸。
こちらは壬生浪士の水戸派(芹沢一派)が寄宿し、屯所としていた。
門内からは撮影不可だそうなのでここまで。
屋敷内の芹沢と腰巾着達が寝泊まりしていたという部屋に集まり
浪士組結成募集から箱館戦争に到るまでのお話を聞くが…
まあ、内容は全部知ってるw
しかし、一つだけ初めて聞いた事がある。
八木家の家紋は三つ木瓜で、これは戦国大名・越前朝倉家の紋。
八木家始祖である八木又兵衛は朝倉義景の子だそうで、
一乗谷城の戦い後、京へと落ち延び八木姓を名乗ったそうです。
これは新事実。
芹沢の暗殺には諸説あるが、前日(三日前説もあり)に切腹を申し付けられた新見錦(腰巾着1号)も含め、
数々の狼藉に手を焼いた会津藩主・松平容保が近藤一派へ命じたという説もある。
切腹を命じても応じず暴れて無用の被害を出す可能性のある芹沢には暗殺を指示と。
当日、就寝中の芹沢を土方、沖田、山南、原田ら(土方ではなく藤堂説もあり)が襲撃。
平山五郎(腰巾着2号)はその場で斬殺され、斬りつけられた芹沢は驚いて八木一家の眠る隣室へ逃げ込むも文机に躓き転倒。
八木家の息子・勇之助の上に倒れ込み刺客たちによって滅多斬りにされて絶命。
この際、勇之助の右足に刀が当たり、怪我を負わせたそう。
まるで見ていたかの様に語られる事件だが…
事件当時は長州藩士の仕業とされるが、後の明治時代に新選組の生き残りである永倉新八によって事件の顛末が語られたと一部では言われている…
…が、そもそも芹沢と懇意だった永倉はこの事件の刺客に選ばれていない。
なので一部始終を知る由も無し。
実際は一部始終を間近で見ていた八木家当主の源之丞や勇之助によって本当は近藤一派の仕業だったと語られた。
勇之助に至っては一番近く且つ、自分も命が危うかったかもしれないという状況でしたからねぇ…
別室に居た平間重助(腰巾着3号)は逃亡し、以降は表舞台には出てきていない。
因みに腰巾着1~3号は創作物での話であって実際には腰巾着だったかどうかは不明。
資料が少なすぎて謎が多すぎる人物たち。
お茶で一服
我々と一緒に話を聞いてたお客さんの中に刀剣乱舞の加州清光(沖田総司の愛刀という設定)のぬいを付けたお姉さんが居た。
あーーー…そういうことね。
八木邸から更に数10m先に壬生寺
この表門は寛政11年(1799年)再建と境内で一番古い建物だそう。
新選組ゆかりの寺ではあるんですが、
その名前から隊士慰霊のために建てられた寺と誤解されてそう…
創建は正暦二年(991年)とかなり古い。
そもそも壬生とは新選組を指す名称ではなく壬生町というこの周辺の地名ですからね。
境内へ。
新選組隊士墓所と歴史資料室
中庭へ。
それっぽいのが
壬生官務家墓塔
うん、いきなり関係ねぇw
『あゝ新撰組』歌碑
あゝ新撰組とは1955年にリリースされた故・三橋美智也のシングルで、
110万枚のミリオンヒットだそうですが…
…知らんなぁw初めて聞いたw
壬生寺歴代住職供養塔
うーん…関係ねぇ…
ここから壬生塚だそうです。
人丸塚
柿本人麻呂の灰柄と伝わるそう。
さっきから関係ないのばっかではw
ようやくそれっぽいのが。隊士の慰霊塔と思われる。
近藤勇、芹沢鴨、平山五郎、河合耆三郎、阿比原栄三郎、田中伊織、
野口健司、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革座衛門、葛山武八郎の名がある。
これ…ほとんどが暗殺か処刑された人なんですよ…
さすがは戦死よりも粛清された隊士の方が多かったと言われるだけの事はあるw
田中伊織というのが謎の人物で新見錦の変名説があるそう。
近藤勇の胸像
右の絵馬には薄桜鬼やら刀剣乱舞やらのキャラ絵が…
ゲームがきっかけで歴史に興味を持つのは良いんだけど
あの手のゲームはあくまで史実をモデルとした架空作品なので、
史実と混同するのはやめていただきたい。
新撰組顕彰碑
こちらが隊士らの墓所。
左が近藤勇の遺髪塔
右が河合耆三郎の墓。
河合耆三郎は勘定方で、経理不正の責めを負って切腹させられているが、
経理不正があったかどうかは不明だそう。
遺体は新選組によって光縁寺に埋葬されたそうですが、
耆三郎の切腹を聞いた親は怒り、これとは別に壬生寺に墓を建てたそうです。
これがそれなのかな。
左が芹沢鴨と平山五郎の墓
右が阿比原栄三郎、田中伊織、野口健司、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革座衛門、葛山武八郎の墓。
芹沢鴨は神道無念流の師範代を務めており、実力者だったことは間違いないが
実戦の記録が大坂力士との乱闘騒ぎくらいしか残っていないため、実戦で強かったのかは謎。
沖田総司の方がずっと強かったのでは説もある。
なので、暗殺などせずに普通に正面から挑んでも勝てたかもしれない。
しかし、それをやっては我らを取り締まる奴らが仲間割れしてんぞと長州過激派達への格好の餌となってしまう。
ということで人知れず暗殺が最善策だったわけだ。
武士道がどうだのは太平の世になってからの平和ボケした綺麗事であって、
戦国の世では暗殺・調略・謀略は日常茶飯事だったわけですよ。
卑怯上等!!
土方歳三の胸像と慰霊塔
2023年建立とまだ新しい。
イケメン。
新選組一の美男と言われる土方だが、
今から丁度10年前に見つかった53歳当時の斎藤一の写真がかなりのイケオジなので、
若い頃の斎藤も土方に匹敵するイケメンだったのではと思う。
調べたら2016年7月15日と、本当に丸10年前だったw
資料室は撮影禁止だったんですが、いやそれ撮影禁止にするほどの物か?
…というレベルだった。
刀が展示してると思ったらまさかのプラスチックに機械柄巻(一番しょぼいヤツ)の模造刀w
以上、前川邸、八木邸、壬生寺でした。
ミーハーなにわか勢はなんとも思わんだろうけど
新撰組好きの歴史ガチ勢が行くと負の面ばかり見せられるので複雑な気分になれると思うw
本来は表沙汰にしたくない様な事件だが、新選組人気のおかげで観光地になってしまった感がある。
続いて京都市の中心部へ移動…
もう海外の観光客だらけで裏通りにちょっと入っただけでも大変な目に遭いましたw
中心部は車で来るもんじゃないというのがよくわかった。
瑞泉寺
街中にポツンとある寺なんですが
ここには豊臣秀次の墓所がある。
境内へ。
マニアックスポットかと思ったんですが、他にも結構お客さんが来てました。
外国人観光客のなんか寺がるから行ってみような感じではなく、日本人なんですよね。
やはり大河効果だろか。
ここは万丸の後の悲劇の地だぞ…
ここが豊臣秀次墓所(正確には供養塔)
凄まじい逆光であるw
逆光が眩しくて気付かなったんですがよくみると墓所を囲うように五輪塔が建っているんですよ。
これらは後世に建てられたそうですが、秀次一族の供養塔だそうです。
ということは全部で39基か。
そしてこの地は…
元々は鴨川の三条河原にあった中洲で、秀次一族が処刑されたというまさにその場所なんです。
文禄四年(1595年)七月十五日(現8/20)、秀吉より賜死の命が下され秀次は自害。
翌七月十六日(現8/21)、秀吉の元に秀次の首が届き検分するも、これで満足せず一族の根絶を図る。
七月三十一日(現9/3)、秀次一族が京都の徳永邸に戻され処刑が通達される。
八月二日(現9/5)、幼い若君・姫君を含む一族郎党39名が京の街を引き回された後、この地で斬首される。
そして、処刑の仕方も酷過ぎる。
40メートル四方の堀で囲まれた刑場に3メートルほどの塚を築き、ここに秀次の首が晒された。
秀次の首が見下ろす形で、最も寵愛を受けていた正室・一の台が北政所の助命嘆願も叶わず真っ先に処刑される。
子供たちから順に処刑され、子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったとか。
余りに酷い仕打ちに観衆から奉行に対して罵詈雑言が発せられたそうだが、太閤殿下の御命令には逆らえないので奉行衆も仕方なくやっていた(んだと思うが…)
遺体はまとめて一つの穴に投げ捨てられ、埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて何とも粗末な首塚とされたんだとか。
更には石櫃には「秀次悪逆」の碑銘が彫られ、後の殺生関白の悪評(虚偽の吹聴だと思う)から「畜生塚」と呼ばれるに至ったそう。
秀吉悪逆の間違いだろがと言いたくなる様な当時の感覚からしても常軌を逸脱した凄惨極まりない悪逆行為。
鴨川の洪水で塚は流されてしまったそうで、殺生関白の悪評から顧みる人も居なかったのでしょう。
その後、慶長十六年(1611年)、京都の豪商・角倉了以によって高瀬川の開削工事中に流された「秀次悪逆」の石櫃が偶然発見される。
了以の実弟・吉田宗恂は秀次の家臣であったが前年の慶長十五年に亡くなっている(秀次事件への連座は免れたそう)
弟の一周忌にもあたることから、了以と西山派の僧・立空桂叔は江戸幕府の許可を得て秀次一族の塚のあった場所に菩提を弔うための御堂を建立。
これが瑞泉寺になったそうです。
この中央の石がその石櫃。
供養塔建立の際に「秀次悪逆」の四文字は削り取られて、その跡が残っているそうだが
保護のためにアクリル板貼ってるんでしょうけど反射して何にも見えん…
読み取れる七月十五日(秀次自刃の日)の文字はアクリル板に印刷されている。
こちらが石櫃の上に建てられた六角形の無縁塔。
再建された話は聞かないので、おそらく1611年当時のものと思われる
中島町にあった地蔵が安置されている御堂
中島は「中の島・中州」の意だそうで、この地が中州だったことを今に伝えているそう。
木に隠れてわかり難いが元文五年(1740年)建立の秀次一族の供養塔
引導地蔵尊
秀次一族処刑の際に貞安上人(四条・大雲院の僧)が中央の地蔵菩薩像を刑場の片隅に運び込み、
打たれる子女たちに引導を授け続けたと伝わっているそうです。
以上、瑞泉寺でした。
秀次事件には様々な説があるけど、秀頼誕生によって邪魔になった秀次の排除説は間違いないと思う。
殺生関白の悪評も秀吉が自らの正当性を示すための虚偽の吹聴だろうし。
天下統一後の暴走する秀吉を闇落したと揶揄されることも多いけど
心の奥底に潜んでいた暗黒面が表面化して抑えが効かなくなったんだと思っている。
要は本性を現した。
貧しい生まれへのコンプレックス、下積み時代の苦労、ブラック企業のパワハラ上司(信長)w
等々…長い時間をかけてダークフォースが形成されて行き、気付いた時には俺に逆らえるヤツ誰もいねーじゃん。
天下のお宝は全部おれのもの、天下の美女も全部おれのもの、
天下の全てはおれの一言で動くぜヒャッハーーーーー!!な感じでw
ただでさえ少ない自分の身内を自らの手で滅ぼし、これが豊臣氏滅亡の遠縁になったんだから頼朝と全く同じ轍を踏んでるわけですよ。
当の秀次も初陣の失態(長久手の惨敗)こそあれど、その後は順調に武功を重ねており本人の武芸もなかなかの腕前だったとか。
政務でも山内一豊や堀尾吉晴らの補佐もあったが無難にこなしていたそうで、後に統治する近江八幡では積極的に町を発展させて地元では今も崇拝されているそうですよ。
文化面でも茶や連歌にも秀でており、刀剣の鑑定を行っていた形跡もあるそう。
創作では凡庸な人物とされることが多いが、実は文武両道のハイスペック武将だったことがわかる。
これらを踏まえると秀次が殺されなければ豊臣政権は安泰だったとも言われているのも頷ける。
これまた今年の主役・豊臣秀長がもう少し長生きしていれば、豊臣政権は安泰だったとも言われているが…
メディアではあまり取り上げられないですけど実は秀長も晩年は秀吉から疎まれており、もう少し長生きしていれば殺されていたかもしれない。
秀吉に真っ向から意見できる唯一のブレーキ役で秀吉も弟の進言をよく聞いたが天下統一を目前に控えて急に鬱陶しくなったのか。
というか病死ではなく暗殺説もあるw
家康が豊臣から政権を奪ったとかいう阿呆な事をぬかすにわか野郎がいるけど
秀吉の所業を見ての通り成るべくして成ったわけですよ。
そもそも老害化した秀吉に変わって豊臣政権を取りまとめていたのは他でもない家康であり、こうやって諸大名の信頼を勝ち取っていったわけだ。
秀吉没後にタヌキと化すけど、秀吉の所業に比べればあんなものはカワイイもんだ。
この通路の先が池田屋跡地だそうです。
混雑しててやばそうなのでここから眺めるだけ。
なんか色々書いて長くなりましたけど、実際には肩透かし感が凄かった…
やはり東寺に立ち寄っていれば…













































































