今回より三日目。

こちらがリアルタイム旅行記。

 

本日は愛知県豊川市豊川町へ。

 

三明寺

伝・大宝二年(702年)創建。

寿永3年(1184年)木曽義仲に味方した三明寺の僧・望月忠源は源範頼と争い敗北。

境内は焼き払われてしまいます。

応永期(1394年~1428年)諸堂を復興され、三重塔が建立されたのもこの時期。

 

三重塔

享禄四年(1531年)再建の重要文化財。

去年行った奈良の塔に比べれば全然若いんですけど、これはこれで素晴らしい。

しかし…最初の塔は倒壊したのか焼失してしまったのか不明だが、

1394年の建立と仮定しても1531年の再建なので…

最大まで長く見積もっても150年未満で無くなってしまったということになる…

 

太鼓橋と桁橋が二重に架かかってるんですが

これはたぶん、左が稲荷神社で右が本堂への参拝道なんだと思う。

 

蓮池

 

こちらが本堂

正徳二年(1712年)の再建。

 

三徳稲荷

 

 

 

池からの三重塔を狙ったが木に邪魔されるw

 

最後にもう一度、三重塔。

 

 

以上、三明寺でした。

 

豊橋市仁連木町へ移動。

 

続いてこちら

二連木城址

二連木城は明応二年(1493年)戸田宗光によって築城され、

田原城と並ぶ戸田氏の二大拠点となります。

本日は戸田宗家のルーツでもある戸田氏関連の史跡をメインに巡ります。

しかし、ほぼ公園と化しており…

 

往時の遺構と土塁を僅かに残すのみとなっています。

天正十八年(1590年)に廃城となっているので遺構が残っているだけ奇跡かもしれない…

 

土塁の上から

 

土塁

以上、二連木城址でした。

前情報で遺構はほとんど残っていないことはわかっていたので、

二連木城へ来たぞという精神的意味で満足しておくw

 

続いて豊橋市今橋町へ移動。

忌まわしきこれ…

月曜日休館の罠に見事引っかかった2021年。

思えばこれが最初だったか…月曜日の罠に引っかかったのは。

 

吉田城リベンジ。

 

ここ、2021年時は空堀とか書いてたけど堀切ですよね。

左側の石垣は堀切によって分離された曲輪へ池田時代に増設されたもの。

右側も土塁ではなく堀切によって分離された曲輪。

その後も中世城郭を色々見てきたので見る目も変わってきたわ。

 

裏御門跡の虎口

2021年時は石垣補修工事の真っ最中でしたが、完了している模様。

 

本丸

こちら側は仮囲いで覆われていましたが完了してますね。

 

しかし、こちら側に仮囲いが…

現在(2024年10月)がこちら側の補修やってるんですね…

 

吉田城鉄櫓

天守ではなく櫓である。

いや、ホント某日本一のしょぼ天守よりずっと立派だぞw

 

開いてますw

三年越のリベンジw

 

 

一階

こちらは数少ない展示物の具足

 

吉田城本丸の復元模型

西側

2021年時に櫓台を下から見上げると石垣が余ってて浜松城現象の様に見えたんですが…

そうではなく、櫓台と同じ高さで土塀が設けられていたからそう見えていたのだった。

 

北側、水門方面

四隅右手前の櫓が鉄櫓、その手前に川手櫓

 

東側、裏門方面

北東の入道櫓のみが二重櫓。

 

南側、正門方面

右手前に辰巳櫓、左奥に千貫櫓。

これらも鉄櫓に匹敵する大きさだったと伝わっており、三重櫓として再現されてます。

 

展示物がかなり少なく、ほぼパネルの展示です。

吉田城は伝・永正二年(1505年)今川氏親の命により牧野古白が築城。

 

吉田城は重要戦略拠点のため、築城から70年の間に八度に渡る争奪戦が行われており

今川氏、松平氏、戸田氏の三勢力によって幾度となく城主が変わりますが

主を失った松平氏も戸田氏も衰退し、今川氏の支配下へ。

義元が討死後、今川氏から離反した家康よって攻略され、三河国は徳川氏によって統一。

後の武田信玄の西上に始まり、跡を継いだ勝頼の代まで続き、

元亀二年(1572年)から天正十年(1582年)まで。

実に10年に渡って徳川氏・武田氏の攻防が続きます。

城代・酒井忠次をこれを死守し、一度も奪われることはなかった(そして6番撮ってなかった)

酒井忠次の復元陣羽織

 

家康の関東移封後は池田照政(後の輝政)が入封。

秀吉お得意の旧徳川領には自分の息のかかった者を置く政略。

 

現在の縄張りは池田照政によるもの

後に姫路城を築くだけあって築城に関しては一歩秀でたものがあったと思うんですよね。

戦功はパッとしないがw

 

二の丸絵図だが、現在の二の丸はほぼ遺構が残っていない…

 

 

この図を見ると鉄櫓の位置に五重天守が建ってるんですよね。

元は五重天守が建っていた説と最初から三重櫓が建っていた説がある。

しかし、よく見るとこれ小さく理想図とか書いてるので、ただの計画図的なものかもしれない。

 

江戸時代の城郭と城下図

 

14も撮り忘れるとw

 

こちらの図面には「天守」の字が記されてます。

 

 

石垣が用いられてるのは本丸のみだそうですが↑の二の丸絵図には石垣が描かれているが…

刻印入りの石垣は名古屋城築城時の残石だとか。

江戸期にも小規模改修を受けてるんでしょうかね。

 

歴代城主

徳川時代前は争奪戦によって城主が頻繁に入れ替わり

江戸時代以降は実に9家22代と頻繁に国替えが行われた。

 

吉田の大橋

東海道から豊川を横切る地点に架かっていた橋で、

江戸と京都のほぼ中間点にあたる吉田は大変賑わう宿場だったとか。

因みに城のすぐ側に架かる吉田大橋ではなく、現在の豊橋の位置に架かっていたそうです。

 

宝永四年(1707年)の地震の破損図

この地震によって本丸御殿は倒壊。

以後、再建されなかったそうです。

 

明治期の写真

明治初期に撮影された大手門

 

こちらも同時期撮影された豊川の対岸から

手前に写っているのは水手櫓で、鉄櫓が既に無くなっている。

安政元年(1854年)の地震で倒壊した説もあり。

その後、明治6年の失火によって城郭内の建物の多くが焼失してしまったとか。

明治8年に大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が置かれ、城の建物は既に残っていない。

取り壊されたのか焼失してまったのかは不明。

 

紺糸威腹巻

大河内家伝来の腹巻で現在は安久美神戸神明神社に奉納されているそう。

 

明治16年に撮影された旧吉田藩家臣の集合写真。

 

二階

二階は江戸時代の城下町

 

 

 

 

 

6撮り忘れるw

 

 

 

関ヶ原合戦後に家康から各宿に下付された伝馬朱印状

 

悟真寺

吉田城三の丸辺りにあったとされる寺院。

 

湊町神明社

白鳳期(645年~710年)創建とされる神社

 

禁教令

写真は宗旨御改帳という住民がどの寺院に所属しているかを記す書類。

 

元々は吉田駅と呼ばれてたそうで

後に「駅」から「宿」や「宿場」という言葉に取って代わられるようになったとか。

 

吉田の名産

吉田鎌、火口(点火具)、瓦が名産らしい。

 

現在も続いている吉田神社の祇園祭り花火だそうです、

 

1708年の吉田町水道絵図。

 

吉田藩主・大河内家所有の能面

 

 

前芝灯明台

こちら寛文九年(1669年)の建立で現存してるんですね。

 

さっきの吉田大橋の前史がこちらに

1570年頃に酒井忠次が土橋の土木工事を実施、

1590年の池田照政入封後、木橋への架け替えが行われ、

江戸時代には幕府直轄となり長さ100mを超える大橋になったとか。

現在の豊橋に名前が変わったのは明治維新後。

明治政府が旧藩名の吉田の使用を許さなかったからだそうです。

はい、出ました。クソ明治政府お得意の旧幕府側には名前使わせない政策。

ホントこいつらはやることが低レベル。

 

鬼祭

鬼と天狗が戦い、負けた鬼が白い粉を撒き散らしてながら逃げるらしいw

 

おんぞまつり

 

白山社祭礼

 

長すぎて正面からだと収まらなかった…

上:天王社祭礼巡幸図

下左:松平伊豆守行列図

下右:競馬図

 

まさかの体験用能面

怖いですwはいw

女面は一番怖いと思うw

 

地面に吉田城下推定図

 

吉田城石膏模型

 

三階

 

三階は展望室なんですが…

格子がぁぁぁ……

 

鉄櫓=天守説について

これ、つまりは御三重櫓なのでは。

御三重櫓とは

実質天守だが、幕府に憚って天守とは名乗らずに櫓と名乗った建物のこと。

近年になってから天守を名乗り始めた元・御三重櫓もある。

 

北側

格子間から上手い具合に…

 

南側

角度的に無理だーーーーーー(木しか入らん)

 

以上、鉄櫓でした。

 

武具所跡からの鉄櫓

 

武具所跡からの豊川

左に見える橋は豊橋(旧吉田大橋)ではなく現在の吉田大橋です。

今思ったんだけど

これ、対岸から見たら素晴らしいビューポイントなのでは?

調べたら城向広場という公園になっているそうです。

やはりな…

 

2021年時は通行止めだった南側へ。

 

南御多門跡

 

 

虎口の堀切

 

 

 

冠木門跡

おそらく冠木門が一の門、さっきの南御多門が二の門なのでしょう。

 

冠木門前からの本丸方面。

こちらが正門なので本来の向きがこれ。

 

本丸・二の丸を隔てる堀切

 

堀切沿いから北側へ周って川手櫓跡

 

 

川手櫓跡から鉄櫓を見上げる

前述の通り、これは浜松城現象ではなく土塀が同じ高さで建っていた名残である。

 

真下から

往時の正確な図面が無いそうなので、模擬櫓になるんだそうです。

 

水門跡からの鉄櫓

 

水門跡からの豊川

手前の石はおそらく発掘された石垣と思われる

 

 

堀切

左側が二の丸、右側が本丸

 

こちら側にも石垣があるけどはたして当時のものなのだろうか…?

以上、吉田城でした。

三年越しのリベンジ完了!!

 

続く