吉田城リベンジも果たし、豊橋市から田原市へ。
今回はこちら、
田原城。
この地図を見ての通り、田原市=渥美半島(正確には八割ほど)なんですよね。
これに豊橋市のほぼ全域に知多半島の東半分を加えたのが戸田氏全盛期の領土。
因みにこの辺りは蓮池(堀)跡だそうです。
では、入りましょうか。
そして、この通路は空堀跡です。
一見、虎口の様ですが
空堀跡なので新造された入口と思われる。
謎の神社らしきものは井戸跡です。
野面石垣
だが、何か違和感…
上から
博物館建設の際、施設と通路の再整備のために多くの遺構を崩してしまったことは批判も受けている
という記述があったんだけど、この辺りの事では…
階段を上がり二の丸跡へ。
再建された二の丸櫓
石垣は当時のもの
残っている古写真とは少々異なり模擬再建だそうです。
内部は田原市博物館になっており、こちらは後ほど。
まずは外へ
再建された桜門
こちらもやや過剰装飾だそうで模擬再建です。
袖池(東側外堀)
枡池(西側外堀)
袖池沿いから
城の向かいには田原市民俗資料館(休業中)と
隣接する田原市立田原中部小学校
文化七年(1810年)田原藩の藩校・成章館として建てられ、現在の校舎は昭和9年の建立。
城内へ戻り
これも井戸跡でしょうかね。
本丸跡へ。
現在は巴江神社になっています。
残念ながら遺構は見られない。
田原城は文明十二年(1480年)頃、戸田宗光が三河湾支配の拠点として築城。
宗光没後、跡を継いだ憲光の時代に田原戸田氏の最盛期を迎えるも
政光、宗光(後の康光)と相次ぐ代替わりによって衰退。
享禄二年(1529年)
松平清康(家康祖父)に吉田城を攻め落とされ、田原城は戦わずして降伏。
松平氏は三河国をほぼ統一するも…
翌、享禄三年(1530年)
清康は守山攻めの陣中で殺害され、求心力を失った松平氏もまた急速に衰退。
これにより三河国の情勢は不安定となり、今川氏は再び三河へと進出し三河勢を従属化していった。
天文十六年(1547年)
尾張織田氏の三河侵攻を前に今川氏の援を求め、松平広忠は嫡子・竹千代(後の家康)を駿府へ人質へ送ることとなる。
駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で戸田康光の裏切りによって竹千代は拉致され、尾張の織田信秀の元へ。
これによって今川義元の怒りを買い田原城は攻め落とされ田原戸田氏は滅亡。
というのがこれまでの定説だったが…
これについては後ほど詳しく…
永禄九年(1566年)
清康の死から30有余年、孫の家康が三河国を再統一。
その後の天正十八年(1590年)徳川の関東入封後は池田照政が吉田城入りし、その支城となります。
現在の城郭の姿は池田照政時代の改修されたもの。
江戸時代になると三河国には譜代大名が置かれ、
寛文四年(1664年)三宅康勝が藩主となり、明治維新まで三宅氏の居城となります。
拝殿とその後ろに本殿。
祭神は三宅氏の遠祖である児島高徳、家祖・三宅康貞。
イザナミノミコト、ハヤタマノヲノミコト、コトサカノヲノミコト。
隣には富多満瑠稲荷社
招福石
巴江護国社
再度、二の丸へ。
二の丸櫓・田原市博物館へ。
江戸時代の田原城1/100模型
本丸に天守は無く、二の丸櫓が最大の建物だったことがわかる。
戸田尊次、忠能、忠冶時代(1601年~1664年)
三宅氏時代(1664年~1869年)
出土品した渥美古窯
平安末期~鎌倉初期にかけて知多半島・渥美半島は窯業地帯だったそうです。
以下、吉胡貝塚・山崎遺跡等の出土品。
一掃百態図
渡辺崋山・著 文政元年(1818年)の重要文化財
日本名山図絵
興倒筆随帖
万里長江図巻
山水図の掛け軸
春秋山水図屏風
山水図屏風と掛け軸
以上、田原城・田原市博物館でした。
続いて長興寺へ。
戸田氏歴代当主墓所
戸田氏の系図
永正六年(1509年)戸田氏全盛期の版図。
田原市大草町にあった宝憧寺に建てられていた墓が
昭和40年にこちらへ改葬されたそうです。
墓所案内板
田原戸田氏の六曜紋
さすがに全体は入らないので斜めから
手前にあるのが一色政照
奥・左から順に
戸田宗光
芳源院(戸田宗光室)
戸田憲光
戸田政光
戸田忠政
戸田忠次
徳雲院(戸田忠次室)
戸田尊次
萬松院(戸田尊次室)
戸田忠能
久昌院(戸田忠能室)
戸田忠次(忠継)
陽徳院(戸田忠次(忠継)室)
九鬼守隆
天翁院(九鬼守隆室)
戸田外記
戸田康光
左から世代順に並んでいるのですが
康光だけが飛ばされて右端にあるのが気になるなぁ…
これ、以前にも書いてますけど戸田康光について。
前述の通り、康光の裏切りによって竹千代は織田の元へ送られたというのが定説でしたが、
この説は非常に創作性が高いことで有名な三河物語の記述が元となっています。
近年、この定説を覆す織田信秀が三河に侵攻したという有力な資料が見つかっています。
天文十六年(1547年)織田が岡崎城へ、今川が田原城へと同時に進行。
戸田氏と松平氏は同盟関係にあり共に戦ったとされるが、
岡崎城は織田に降伏、田原城は今川によって陥落。
松平広忠は降伏の証として竹千代を人質として差し出したとされ、
そもそも康光の裏切り自体が無かった。
現在ではこちらの説が最有力とされています。
また、天文十六年時の侵攻で田原城は陥落しておらず、
天文十九年(1550年)頃の陥落が有力視されているそう。
更には康光は広忠と於大の方を離縁させ、自分の娘の真喜姫を嫁がせたというのも定説だったが、
この離縁・再婚を命じたのが広忠の後見役である叔父の松平信孝だったというのが近年の有力説となっている。
何かと悪者扱い戸田康光ですが、どんだ風評被害ですよね…
大河・どうする家康ではこの近年有力説を採用するのかと思いきや
古臭い定説を採用したのにはガッカリだった…
以上、長興寺戸田氏墓所でした。
本日の昼食
再び静岡県へ。
こちらは浜名湖弁天島の大鳥居。
本日の予定はここまでだったのですが
時間に余裕があったので再びやって来ました
犀ヶ崖資料館
こちらは2021年時のヤツ。
そういえばこの時も予定にはなく時間に余裕あったから立ち寄ったんだったw
その前に、前回見逃していたので資料館のスタッフさんに案内してもらい
夏目次郎左衛門吉信の碑
夏目次郎左衛門吉信旌忠碑
三方ヶ原の戦いにて決死の突撃をしようとする家康の乗馬を強引に浜松へ向けて退却させ、
自らを家康と名乗り武田勢の追手に突入して奮戦。最期は身代わりとなって討死した。
知名度が高いとは言えない武将でしたが、
大河にも登場し、更には「神回」とも評判になり、一躍有名になったのでは。
資料館へ戻り。
ますはこちら
本多肥後守忠真の顕彰碑
後の徳川四天王・本多忠勝の叔父にあたり、夏目吉信とともに大河の神回に登場。
忠真もまた一躍有名になったのではないでしょうか。
改めて犀ヶ崖資料館へ。
家康の浜松入城
大念仏
ド派手な蝶の馬印の大久保忠世の反撃
徳川軍の敗走
家康出陣
順番逆でしたねこれw
2021年時にはあったしかみ像の場面や井伊直政関連の人形が無くなってましてね。
何処かに出張中なんでしょうかね?
三方ヶ原の戦いジオラマ
2021年時は無理だった全体撮影がAIカメラならば可能にw
徳川本陣側
武田本陣側
以上、犀ヶ崖資料館でした。
やはりここ、小規模ながらも見応えあるんですよね。
最後に崖下を…
…と思ったが、ほとんど見えない…
この後、雨が降ってきて本日の夜の徘徊は中止しました。
これにて三日目終了。





























































































