続・姫路城。

六階から下りルートへ。

 

前回は上がりルートと下りルートが別々になっていた事に家帰ってから気付きましてね…

今回はじっくりと見ながら下って行きますぞ。

 

五階

西大柱と東大柱。

 

破風の間

 

 

四階

 

破風の間

 

四階と三階の間の踊り場から

 

 

三階

 

武蔵の妖怪退治

宮本武蔵にまつわる逸話はさぁ…ほとんどが江戸時代の創作なんですよねぇ…

坂本龍馬も然り。

この妖怪退治も木下家定が姫路城代だった頃の逸話で

高名な武芸者である宮本武蔵は名前を隠し姫路で足軽奉公していたというもの。

木下家定の城代期は天正13年(1585年)~慶長5年(1600年)

宮本武蔵の生年は天正12年(1584年)

最末期の慶長5年だったとしても武蔵16歳。

元服したかどうかって年齢。

この年齢で高名な武芸者はさすがに無理あるでしょうよw

そもそも五輪書が柳生宗矩の兵法家伝書のパクリだそうだし

29歳までに60余回の勝負を行い、全てに勝利(勝った試合しか記述していない)

しかも全て草試合(高名な武芸者は草試合など行わず、正式な場での試合しか行わない)

当時の高名な武芸者は大名家に兵法指南として召し抱えられているが、武蔵は仕官を求めるもどの大名からも召し抱えられなかった。

関ヶ原合戦に参戦するも途中で気絶して戦線離脱。

大坂の陣にも参戦するがまたしても気絶して戦線離脱。

更には島原の乱にも参戦しているという話もあるが武功は伝わっていない。

以上、日本一有名な剣豪といっても過言ではないが本当に強かったのかは非常に疑わしい。

享保期以降から巌流島の戦いの脚色による講談等に始まり

現代では吉川英治の小説宮本武蔵の影響があまりにも強く、史実とは大きくかけ離れてしまったのではないでしょうかね。

もしかするとの話ですが…

画才は素晴らしいので、後の時代に芸術家・宮本武蔵は実は剣術も嗜んでいたみたいな話に始まり、

これが色々と脚色されてゆき、現在に伝わる剣豪・宮本武蔵像が出来上がった…と考えらなくもないかなと。

 

武蔵の妖怪退治の窓からw

西小天守

世界遺産登録30周年記念の一環で2024年2月1日~2月29日まで初公開されたそうです。

大天守から西小天守へ繋がる例の鉄扉も同時に初公開されていたそうです。

まあ、今回のこの記事は2023年5月なんですがねw

 

乾小天守とハの渡櫓

こちらも30周年記念の一環で2023年8月11日~ 9月24日まで

14年ぶりに折廻櫓、イの渡櫓、東小天守、ロの渡櫓、乾小天守、ハの渡櫓が公開されていたそうですからね。

タイミングが合わないからどうしようもないんだけど、いつの日か小天守に入れる日は来るのかw

 
上がりルートの三階は内陣しか歩けなかったのでじっくり見て行きますよ。

三階は天井が高く、非常に興味深い構造になっている。

二段構えの石打棚

この上の段が四階への階段の合間にある踊り場へと繋がっているそうです。

これを利用して北側と南側の石打棚への行き来可能なわけで、

三階は内陣に上下階段があるので、丁度この石打棚から狙い撃ちができるのだ。

誰一人として石打棚に注目してる人はいませんでしたがw

 

 

 

二階

 

武具掛け

鉄砲と槍、上の折釘に火縄と薬袋が掛かってますが

前回あったっけかこれ…

 

 

 

二階の武器庫

こちらも前回は非公開で、階段下る最中に引き戸になってるのに気づいて

ここ入れるんじゃね?と思ったんですよね…

で、 前回の旅行の直後に初公開され…

ようやく入れたわけですよ。

こちらも一階同様に期間限定公開とのことです。

具足と鎧櫃があるが…

新しいですねこれw

 

 

一階

一階はごく一角。

もう出口かー…

あれ?渡櫓に行けなくね?

出口の側にいたスタッフの人に思わず聞いてしまった…

私「渡櫓へ出れなくなったんですか?」

ス「渡櫓…?ああ、この先ですねw」

あ…

この先だったw

 

そうだったw

前回、渡櫓から大天守に入ったんだったw(今回は進行方向が逆)

 

前回の

 

イの渡櫓

 

東小天守

階段は当然閉まっておりまする。

 

 

 

 

ロの渡櫓

混雑してるので瓦類の展示はスルー

前回じっくり見てるしいいや

 

 

当時の姫路城と城下町の模型。

 

これが丁度現在の規模くらい。

 

乾小天守

 

こちらも当然閉まっておりまする。

 

こちら、ホントに出口です。

 

そうだった。

そういや中庭経由せずにこの階段上がってったんだよな前回。

結局、地階には戻れずw

誰だ!どうせまた地階に戻るんだし後でいいやとスルーしたアホはッ!!w

 

 

以上、姫路城天守でした。

 

 

この場所、つい天守に目が行きがちですが

ちょっと苦しいけど西の丸も一望できるのですよ。

 

そして天守。

 

備前丸

結構な混雑ぶりなんですが

皆さま空気読んで天守には近寄らん様ですw

 

ホント奇跡だったよなこれ…

 

 

 

天守がデカ過ぎる為、備前丸からだと見上げる形になってしまうんですよね…

最上部が隠れてしまうのが残念。

 

近すぎるとあまり望楼型感がないw

 

 

折廻櫓

 

遠間から眺めて大天守の東側がどうにも貧弱に見えるのは

この石落としの所為だと思ってる…

一般的な天守の石落としは大きく張り出し石垣の真上に設置されおり、

これが天守を大きく見せる視覚的効果にもなっている。

 

福山城の土台が頼りなく見えたのも石落としが無いからだった。

 

備前門

 

立ち入り禁止ゾーン

この先も前回の旅行の後に期間限定で公開されたそうなんですよね…

 

 

おお、誰もいないw

 

東曲輪への門

立ち入り禁止w

 

太鼓櫓

 

りの門

小さな高麗門ですが、 切妻屋根と櫓が一体化した珍しい造り。

土塀、太鼓櫓、りの門、これらは池田輝政時代以前の建造物だそうです。

天井板の裏面に「慶長四ねん 大工五人」の墨書きが見つかっており、

それを裏付ける証拠になったそうな。

慶長四年(1599年)は木下家定城代時代で、なんと関ケ原の戦いの一年前。

 

上山里曲輪

 

 

 

前回逃したビューポイントw

ここからならば最上部までしっかり見えるが

当然ながら天守台は見えないというねw

 

お菊井戸

いちまぁい…

にまぁい…

手前に写ってるのは皿ではなく我が指であるw

 

 

リの一渡櫓と、リの二渡櫓

 

明治~昭和の歴代鯱

 

ぬの門

 

扇の勾配の高石垣

前回の記事で真上がさっきまで居た備前丸だとかぬかしてやがりましたが、

備前丸の真下はたった今歩いてきた上山里曲輪なので

この上はギリギリ備前丸の端っこあたりw

この先、をの門跡。

現在は消失しまっている。

 

るの門跡

前回、怪しい男がへばり付いた石垣w

珍しい埋門でして、凄まじくデカい天井石。

 

 

三国堀曲輪

 

継ぎ目のある石垣

真ん中あたりに斜線が入ってるんだけどこの写真だとわかり難い…

継ぎ目箇所

右手が羽柴秀吉時代、左手が池田輝政時代のもの。

因みに上部の色の違う石は明治のものだそうです。

 

をの門跡側から前回は戻ったので今回はこのまま三国堀側へ進みます。

はい、スタート地点へ戻りました。

で、また二の丸へ戻り

因みに右の小道は、をの門跡であるw

無駄に遠回りしているw

 

西の丸へ

 

ここもビューポイント

 

渡櫓と化粧櫓

あ…こっち出口側だった…

なんかすっげー無駄なことしてんじゃね?w

三の丸側から西の丸へ上ると渡櫓なんですが

三の丸→二の丸→西の丸(二の丸側)→西の丸(三の丸側)という無駄なことをしている…

 

三の丸側へ向かいつつ百間廊下の外観。

 

 

そしてここ

個人的にはここが城内一番のビューポイントだと思う。

やはり小天守の見えるこの角度が良い。

しかし、ここからでは東小天守は隠れてしまうのだ。

今回は全ての小天守外観を見るために…

 

続く