おはようございます、
なおです。


ふつーに生まれた私が
どうやって今まで生きてきたのか?について
綴っています。。。


前回はここ

【わたしの世界観32】




週末、仕事に行くために
小学生の娘を実家にあずける。

仕事が終わり娘を迎えに行き
夕飯を食べて帰る。


毎週のルーティンの中、
父はお酒を飲みながら

「これは500円の薬なんだ」と
よく言っていた。

小さな一回分の白い粉薬。

酒飲みながら飲んでいいのかよ・・・
そう思っていたけど

まあ普通に元気に酒飲んでるから
いいのだろう・・・

そんなふうに気楽に思っていた。


父はその後、入院した。



見舞いに行くと、
いつも帰り際一緒に外まで出て
タバコを吸った。


その時も私は、

まだまだ元気にタバコ吸ってるから
いいのだろう・・・・


そう思っていた。


その入院は1ヶ月程度だったように思う。

結構早く退院できて良かったね〜なんて
のん気に言葉にしていた私。


でも、父は分かっていたはずだ。
自分はもうそんなに
生きることができないことを。


退院してから、
毎週末のルーティンの夕飯に

父がお酒を飲まなくなった。



ご飯すら美味しくないと
なかなかはしが進まなくなった。

灰皿のタバコの吸い殻が
減っていった。


夏なのに寒いと言って
暖房をつけた車にこもる。


足のかさぶたがいつまでも治らないと言う。


いつも孫の前ではお調子者の父が
ちょっかいすら出さずに
布団に潜り込むことが多くなった。


週末行くと朝も帰りも
布団にいるようになった。


ある時、母が出かけていた。

何の用事で実家に寄ったのか
覚えていないけど、

その時、娘を車にのせた記憶がないから
何かを取りに仕事の帰りに寄ったのだと思う。


その時も布団で横になっていた父に
声をかけた。

「お父さん、大丈夫?私、帰るね」と。

「気をつけて帰れ」そう言った父。


普通だった。。。。


それから次の週末、
すでに父は再び入院していた。


母から聞いた話。

お父さん、トイレも失敗するようになった。

あの日、なおが帰ったあと、
1人でトイレまで行ったけど失敗して

その後すぐ母が帰ってきたからなんとかなったけど、
布団に戻ることすらできなかった、と。



あの時・・・・

父は、娘である私に頼ろうなんて
思ってもいなかったんだと思う。


私がもし、父でもそうしたと思う。


『尊厳』ってやつだ。
(これはのちに介護の仕事をして覚えた言葉)


娘に弱みなんか見せたくない。
そう思っていたんだろう。


それはそれから数日後、
病院に行った時も感じたこと。

すでにせん妄が始まっていた。

(せん妄:病気や薬が脳に影響した場合に起こる、
一時的に意識障害や認知機能の低下が起こり
混乱状態になる。周囲の状況がわからなくなったり、
幻覚・幻聴・妄想などの症状が出る・・・
これものちの介護の仕事で覚えた言葉)


意識がもうろうとしてるはずなのに、
私と小学生だった娘が行くと

「売店には行くな!変な外国人がたくさんいて
〇〇(娘の名)危ないから絶対に行くなよ」


そう言った。

そして正常なフリをし続け、
テレビを見ているフリをした。

そんな番組いつも見てないでしょ?みたいな
番組をただ目を開けて見ていた。



また、別な日は
夏真っ盛りの暑い日だった。

娘は夏休みに入ったばかりだった。

病室に行くと、
父が看護師さんに棒付きのアイスを食べさせてもらっていた。


「あー!!じいちゃんだけずるい!」
そう小学生の孫に言われると

ガキ大将のようにニヤッと笑った。


もうその時、
アイスしか食べることができなかったのを
後から知った。


数日後、
主治医から呼ばれ母とともに話を聞くが
理解できなかった。

とにかくもう残りの時間は
ないのだということしか理解できなかった。

体のどの部分がこうでああで、、、、
そう言われても知らねーし!って思ってた。

だって治せないんでしょ?
じゃあ説明を頑張って理解するのは
無駄じゃんって思った。


それからすぐに
父が「死に部屋」って呼んでたICUに
移動になった。


次へ続く