狭山市のマンホール。
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市の鳥 「 おなが 」、木 「 茶ノ木 」、花 「 つつじ 」 を描いた
マンホール蓋です。
おながは、長い尾羽を持つ優美な鳥で、民家の立木にも姿を現す
身近な存在です。
つつじは市内で多く見かける花で、色鮮やかで美しく、稲荷山公園に
接する斜面緑地では、4月下旬から5月にかけて見頃を迎えます。
また、厳しい冬を乗り越えて収穫される狭山茶は深い味わいで、更に、
仕上げの最終段階で狭山茶独自の技術である 「 狭山火入れ 」
によりうま味とコクを生み出します。
本デザインは狭山茶の色合いをイメージして、緑を基調とした配色に
なっています。
( マンホールカードの説明文 )
単口消火栓が描かれたマンホール。
蓋を開けると、単口消火栓になっているのでしょうね。
単口とは別に、双口の消火栓もあります。
入間川八幡神社は、西武新宿線:入間川駅から西へ500m。
丘の上に鎮座されます。
鎮座地:狭山市入間川3-6-14
境内に上った左に手水舎。
花手水。
入間川八幡神社 HPの記事を転載します、
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ご祭神 第十五代 応神天皇 (誉田別命)
合祀 天照皇大御神・春日大神
例祭日 <春季> 4月15日
<秋季> 9月15日
ご由緒
九州宇佐八幡宮を本社とする全国八幡宮の一社。
創建は、社宝 『 砂破利のつぼ 』 の推定年代から、室町時代初期
とされている。
源氏一族の保護により、武門の神として隆盛をみて後世、新田義貞の
信仰厚く、一時 『 新田の八幡宮 』 と称されたこともある。
今日では応神天皇とその母、神功皇后の事績により文化興隆の神
として文武に志す人々に、崇敬の念が厚く、さらに母と子の情愛から
母子神の信仰を生み、安産から初宮詣、そして子育てへのご神徳を
仰ぎ、また、新田義貞が合戦に向けて当社で戦勝祈願をし、見事
勝利を治めたところから文武・必勝の神として市民に親しまれている。
https://www.sayamahachimanjinja.com/history/
『 新編武蔵風土記稿 』( 入間川村附新田 ) には、
八幡社
當社は元弘三年新田左中将義貞當所出陣の時、氏の守護神なれば
とて、勧請して、弓矢の行末を祈誓せしと云伝ふ
と書かれています。また、『 埼玉の神社 』 によれば、
正慶二年に新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めた時、義貞の守護神
八幡大菩薩の像を成円寺に奉納して戦勝を祈願し、大勝を得たので、
八幡大菩薩の像を神体として、社を造営した。
と書かれており、『 新編武蔵風土記稿 』とは若干異なった時機の
創建となっています。
ただ、元弘の乱 ( 鎌倉幕府の滅亡 ) の時期に創建されたのは
間違いないようです。
後醍醐天皇は、執権北条氏が牛耳る鎌倉幕府を倒すことを決意され、
元徳三年 ( 1331 ) 8月9日に「 元弘 」 に改元されています。
京都を脱出されて、皇子:尊良親王と尊雲法親王 ( 護良親王 ) と共に
笠置山の戦いを起こされました。
楠木正成公は呼応して下赤坂城で挙兵、桜山茲俊公は吉備津宮で挙兵。
しかし笠置山は9月に落ち、後醍醐天皇と尊良親王は捕縛されます。
桜山茲俊公は吉備津宮に火をかけ自害。尊雲法新王と楠木正成公は逃走。
後醍醐天皇は隠岐島へ流され、尊良親王は土佐国に流されました。
元弘二年 ( 元徳四年、鎌倉幕府は改元を認めていない )、楠木正成公と
護良親王が再び挙兵、元弘三年 ( 正慶二年、1333年 )、後醍醐天皇と
尊良親王が流刑地を脱出されます。
新田義貞公は楠木正成との戦い ( 千早城 ) に参加するも、途中で
故郷へ帰還、後に倒幕に呼応して挙兵、5月の東勝寺合戦 ( 鎌倉 ) で、
幕府は滅亡します。
笠置山
本殿は、非常に凝った造りです。
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八幡神社本殿 市指定文化財 建造物
指定年月日 昭和四十八年三月一日
八幡神社は祭神応神天皇を祀り、当社殿は寛政八年 ( 1796 )
に初釿 ( おのはじめ ) をし、七年を要して完成したという。
当社に伝わる 「 本社殿木書記之事 」 という古文書によると
「 享和二竜次壬成 ( 1802 ) 龝 ( あき、秋 ) 七月五日棟札 」
となっており徳川時代末期の建造であることが明らかである。
入母屋の流造の特性を持ち、一間社造りの胴のしまった均整の
とれた唐破風の向拝があり、正面は千鳥破風の珍しい建築様式で、
四個の彫刻は精巧を極めた優雅な社殿総彫で強く建築装飾の
粋をつくした透彫 ( すかしぼり ) である。
脇障子にも彫刻が施され、勾欄をめぐらした見事な造りである。
また、彫刻等作者が明らかなのも珍しく、棟札に
上州勢多郡植田沢湧丸 並木源二襍訓作 享和壬成夏六月彫之
上野国勢多郡深沢上神梅村鏑木半二邦高彫之
享和二なる六月ヨリ七月七日迄 」
という墨書が記されている。
平成元年三月 狭山市教育委員会
狭山市文化財保護審議会
( 境内説明文 )
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さわりの壺 県指定文化財 工芸品
指定年月日 昭和二十九年十月二十五日
さわりの壺は、大正十二年 ( 1923 ) に拝殿造営のため、本殿を
移転するとき、玉垣の神門の下から発見されたもので、中から少量
の籾粒と金銀の箔片が検出されました。
このことから、これが、当社創建当時の地鎮祭に供えた鎮物を埋蔵
するのに用いた鎮壇 ( ちんだん ) であったことが推定されます。
さわり ( 砂波利、砂波理、砂張 ) とは、胴を主として鈴・鉛
( または銀 ) を加えた黄白色の合金で、たたくとよい音がするので
響銅の字があてられたり、また胡銅器と書かれたりします。
この壺は室町時代の制作と推定され、高さ187㎜、口径70㎜、
最大直径100㎜で、形が非常に優美で安定感があり、黄金色に
白緑の色が映え、しっとりと高質な風格をもっています。
平成四年三月 狭山市教育委員会
狭山市文化財保護審議会
( 境内説明文 )
拝殿に向かって左前に神楽殿。
本殿に向かって左後方に境内社が鎮座されます。
左から、思兼神社。
左から、痘 ( かさ ) 神社、高良神社、大鷲神社、甚兵衛大権現、御嶽山。
琴平神社。
入間川神社 ( 招魂社 )。
日露戦勝紀念碑。 乃木希典大将の揮毫。
忠魂碑。
拝殿からの眺め。
以上。