梅宮神社は、西武新宿線:新狭山駅から西へ1㎞、田圃の中に鎮座
されます。
鎮座地:埼玉県狭山市上奥富508
西に富士山が見えます。
左に手水舎。
狭山市 HP の記事を転載します。
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承和5年(838)、京都の梅宮神社を勧請したといわれ、昔は上・下奥富
はもちろん、東三ツ木、田中、峯、沢地区の総鎮守として多くの人達に
信仰されていました。
毎年2月10日・11日の両日に催される甘酒祭りは、県内でも有名な祭り
の一つです。11日は、西方囃子も上演され、大変賑わいます。
祭神: 瓊々杵尊 ( ににぎのみこと )
木花咲耶姫命 ( このはなさくやひめのみこと )
彦火火出見尊 ( ひこほほでみのみこと )
大山祇命 ( おおやまつみのみこと )
京都右京区に鎮座される梅宮大社
拝殿の天井。梁が素晴しい。
今では、このような木材を集めることが出来ないのではないか?
桃園三傑図が掲げられています。
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「 桃園三傑図 」 とは、中国の三国時代(三世紀)の初め、英雄劉備玄徳、
勇猛の武人として知られる関羽・張飛の三名が桃下に会して兄弟の盟を
結ぶさまを描いた絵画です。
中央に酒肴を画き、その回りに玄徳・関羽・張飛を描いています。
作者は、雲谷派の画家・雪山堤等淋で、江戸時代後期の人です。
雪谷派は、雪舟の流れを汲む日本画の流派で、約400年前、開祖・
雲谷等願が毛利輝元から雪舟の旧居・雲谷庵を拝領して以来、代々
毛利藩お抱え絵師として明治初期まで続き、数多くの優れた画人を出した
流派で、雪舟流ともいわれています。
額の裏側には、
「 奉納者江戸浅草田原町境屋傳蔵・文政三年(1820)庚辰年正月吉日 」
と記されています。
平成二十年三月 狭山市教育委員会
狭山市文化財保護審議会
( 境内説明文 )
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梅宮神社の甘酒祭り
梅宮神社の甘酒祭りは、関東地方には珍しい頭屋制の響宴形式の祭りで、
承和五年 ( 838 ) に京都の梅宮大社から分社されたことから
始まったと伝えられています。
頭屋というのは、当番という意味で、現在、上奥富地区の氏子区域を九組の
「 頭屋組 」に分けて、順番に一年間の祭り行事に関与していきます。
甘酒祭りは、二月十日に宵宮祭りの「 奥富おごり 」「 座揃式の儀 」
「 残酒の儀 」と、翌十一日の大祭には「 第一神事・第二神事 」等の
儀式が行われます。
十日の晩に行われる「 座揃式の儀 」は、「 頭屋組 」の責任者である
「 杜氏 」が主人となり、地区の人々を招き響宴を開きますが、それらには
作法・順序があり、謡をあげては酒盃を重ね、全部で六回重ねると式は終了
します。
そして「 残酒の儀 」に移り、楽座となり自由な雰囲気の中で盃のやりとり
があり、やがて伊勢音頭・相撲甚句を唄い、それに合わせて踊り、
夜が更けていきます。
十一日の午後は拝殿において、昨晩同様に謡をあげては酒盃を重ねる
神事が行われ、祭り行事の引き渡しが行われます。
江戸時代の慶安四年( 1651 )には、川越城主松平信綱が主賓として
この祭りに参加しています。
令和二年三月 埼玉県教育委員会
狭山市教育委員会
( 境内説明文 )
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梅宮神社鰐口
甘酒祭で有名な梅宮神社は、平安時代・嵯峨天皇第二皇子武蔵守源朝臣
信公が五穀豊穣を願って、承和五年( 838 )に京都から分祀してできた
ものだそうです。
梅宮神社鰐口は、もと神社の別当梅宮寺のもので青銅製、直径一四cm、
片面だけが残っており
「 奉 武州入東郡奥富郷西方瀧梅宮鰐口 應永三十三年五月三日 」
と刻まれています。応永三十三年は一四二六年に当ります。
鰐口というのは、寺社の堂前の長押や梁につり、前にたらした鉦の緒と
称する布縄をとって参拝者がその前面をたたき鳴らす金属製の鳴器です。
円形で平たく、ちょうと鉦鼓を二枚前後に合せたような形で面に多少の
ふくらみを持ち、下方には鈴に似た割れ口を持っており、両端に円形の
眼があり、それに続いて縁に口唇をつけてあるというものです。
この形から鰐口と呼ばれるようになったといわれています。
令和二年三月 埼玉県教育委員会
狭山市教育委員会
( 境内説明文 )
拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。
富士塚。
松尾神社。
拝殿からの眺め。
以上。