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初めての方は注意事項に目を通してからお読みください
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離れなくてはいけないタイプのアスペルガー
この記事に対して、努力する発達障害の人としない人ではどう違うのかや、そもそもその努力とは何を指すのかという指摘をいただいた。
そこで、「努力」について少しつめてみようと思う。
その違いは、
『ルールを守れているか』
『目的を達成出来ているか』
この2点が1つのポイントになるだろう。
極論を言えばこういうことだ。
「僕は交通信号の意味を知っている。
赤信号もちゃんと守ろうと思った。
でも、止まれなかった。
僕は信号無視なんかしていない」
これが、発達障害・アスペルガーの主張だ。
要するに、無視しようと思ってしたわけではないので、無視ではない(偶然、不可抗力)と言いたいのだろう。
だけど、実際は信号を守っていない。
ゆえに、赤信号で止まるという目的は達成されていない。
(※因みに、相当重度の発達障害でも信号くらいは守れる。
飽くまでも例えなので、当事者の反論はなしで。)
『ルールの遵守』と『目的達成』がなされていない以上、「結果」は出せていないことになる。
それまでの努力は、情状酌量の材料にはなっても無罪放免を勝ち取るものではない。
簡単に言えば、大人は「結果」で評価される。
赤信号では何があっても止まらなければいけないし、それが出来ないなら自分の責任で解決しなければいけない。
だから、注意散漫なADHDがしょっちゅう信号を見落とすとか、
そこでは立ち止まりたくないというこだわりのあるアスペルガーが信号を無視してでも歩き続けるとか、
そういう性質を持っているとしても、
当然「信号無視になってしまったのは仕方ないですね。障害ですから許しましょう」
とはならない。
生来の性質は発達障害当事者の責任ではないが、それでも周囲と協力しあって必ず解決しなければいけない。
たとえ障害者であっても、社会のルールは守らなければいけないから。
多くの人が共存する社会というものは、ルールによってお互いが守られている。
赤信号を守って止まる車がいるから、発達障害の人も轢かれないで済んでいる。
なのに、発達障害者は赤信号を無視して人を轢いてもよいという理屈が、成り立つ訳がない。
『ルールの遵守』と『目的達成』がなされて、初めて「努力している」と認められるのだと思う。
認めるのは他人であり、自分(発達障害の当事者)ではない。
自分が認めるというのは自己満足で、発達障害の当事者はそこで終わってはいけない。
また、100%出来ないからと言って投げ出すのも違う。
どうしても信号を見落としてしまうことがあるとしても、その回数を3回に1回よりは5回に1回、10回に1回と減らしていく努力が必要である。
たとえ見落としが0(100%の成功)にならなくとも、無意味ではないということを発達障害の人には知ってもらいたい。
発達障害の人には0と100の大きな違いしかわからないのかもしれないが、定型は20と30の微々たる違いも気づくことができる。
努力を続ければ結果が積み重なる。
その積み重なった「結果」に気づく定型は必ずいる。
その結果を人は評価する。
一方で、定型は発達障害者に定型と同質同量を求めてはいけない。
同じやり方や同じ努力量で出来ないからこそ障害と呼ばれるのだから。
不恰好だったり、定型なら1回で覚えられることが3回も5回も必要だったりしても、無能扱いしないこと。
定型であることは偉くもなんともないのだから。
逆に、定型には難しいことが発達障害者には一発で出来ることもある。
発達障害をバカにすることしか出来ないのなら、彼らを導くことなど出来ない。
「努力しないアスペルガー」は、努力の仕方や、そもそも努力して物事を解決するということを、知らないで育った人でもあると思う。
そして、その責任はアスペルガー当事者よりも、定型が作った社会により多くあるのではないか。
生まれつき他人に関心があり、見よう見まねで学ぶことが出来る定型。
それに対し、良い手ほどきを受けなければ関心が向かず、人の内面を感じ取ることができない発達障害。
今、迷惑をかけている発達障害者の多くは、自分が定型とは違うということさえ教えられないで育った人達だろう。
定型は発達障害の人に対し、時に「ちょっと変わってるだけ」「何も問題ない」と言い、時に「おかしい」「普通にしろ」と言う。
定型の思い通りにさせることが、障害を持った人の社会適応ではないはずだ。
奇妙に見えるだけなら、個性として受け入れる必要がある。
その奇妙さを嫌う自由が定型側にもあるが、ならば定型から離れれば良い。
自分は離れない(努力しない)で、相手(発達障害者)にだけ変わってほしいというのはわがままでしかない。
反対に、いくら普通に見えても問題を起こしているのなら、障害者であろうと協力して解決しなければいけない。
障害者を理解するというのは、当事者だけに努力を求めることでも、当事者に何もさせず無条件に許すことでもない。
それは理解ではなく単なる切り捨てだと思う。
「努力してる」と思っている発達障害の人が、定型からその努力を認められない要因の一つに、「確認作業」をしないということがあると思う。
発達障害の人は、努力はしてもその努力がどういう結果を生んだかを確認しない。
一言で言えば、発達障害者の努力は『独りよがり』なのだ。
努力は「目的」ではない。
努力は何かを解決するための「手段」であり、定型が求めているのは努力によって事態が「改善」されることである。
なのに、発達障害の人はその努力の「結果」を見ずに、自分が努力しただけで「目的」を果たしたと言ってしまう。
例えば「左右を見てから横断歩道を渡りなさい」と言われたとする。
しかし、それでも車の前に飛び出てしまった。
これでは、左右を確認した意味がない。
左右を見るという努力は、横断歩道を安全に渡るための「手段」であり、横断歩道を無事に渡ることが「目的」であるからだ。
ただし、発達障害者には「左右を見て」だけでは指示がわかりにくいのだと思う。
「車や自転車が来ていたら止まりなさい」「人とぶつからないように気をつけましょう」くらいまで言わないとその目的がわからないのだ。
これらを教わり損ねた発達障害の人は、自分がこれから沢山のことを学ばなければいけないことを自覚すべきである。
定型もまた、これらの発達障害の人と関わる際には、定型なら幼少期に自然と覚えるようなことから全てを、根気よく教える覚悟と技量が必要である。
どちらか一方にでもこれらの気概がなければ、人間関係を続けることは不可能だと思う。
最後に元ネタに話を戻すと、「離れなければいけない発達障害=努力しない発達障害」ではない。
このブログを訪れる定型の多くは、カサンドラかそれにに近いくらい無理をしている。
無理をしてしまった理由の1つに、基準を相手にだけおいてしまったことが挙げられると思う。
「障害なら理解しなければ」「努力してるなら認めなければ」と、頑張りすぎていないだろうか。
障害だろうが努力してる人だろうが、手に負えないものは負えない。
手に負えるものだけ引き受けるのが、責任ある態度ではないだろうか。
だから、今の自分の力量を基準に決めるべきなのだ。
「助けられなかった」などと自分を責める必要はない。
あなただって助けてもらえる存在であり、今まさに助けが必要かもしれないのだから。
疲れたら休む、嫌ならやめる、苦しいなら逃げる。
誰もが、自分が楽に健やかに過ごせる道を選んでいい。
《関連》
『誰が』今を変えたいのか① アスペルガーの望む世界、定型の望む世界
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離れなくてはいけないタイプのアスペルガー
この記事に対して、努力する発達障害の人としない人ではどう違うのかや、そもそもその努力とは何を指すのかという指摘をいただいた。
そこで、「努力」について少しつめてみようと思う。
その違いは、
『ルールを守れているか』
『目的を達成出来ているか』
この2点が1つのポイントになるだろう。
極論を言えばこういうことだ。
「僕は交通信号の意味を知っている。
赤信号もちゃんと守ろうと思った。
でも、止まれなかった。
僕は信号無視なんかしていない」
これが、発達障害・アスペルガーの主張だ。
要するに、無視しようと思ってしたわけではないので、無視ではない(偶然、不可抗力)と言いたいのだろう。
だけど、実際は信号を守っていない。
ゆえに、赤信号で止まるという目的は達成されていない。
(※因みに、相当重度の発達障害でも信号くらいは守れる。
飽くまでも例えなので、当事者の反論はなしで。)
『ルールの遵守』と『目的達成』がなされていない以上、「結果」は出せていないことになる。
それまでの努力は、情状酌量の材料にはなっても無罪放免を勝ち取るものではない。
簡単に言えば、大人は「結果」で評価される。
赤信号では何があっても止まらなければいけないし、それが出来ないなら自分の責任で解決しなければいけない。
だから、注意散漫なADHDがしょっちゅう信号を見落とすとか、
そこでは立ち止まりたくないというこだわりのあるアスペルガーが信号を無視してでも歩き続けるとか、
そういう性質を持っているとしても、
当然「信号無視になってしまったのは仕方ないですね。障害ですから許しましょう」
とはならない。
生来の性質は発達障害当事者の責任ではないが、それでも周囲と協力しあって必ず解決しなければいけない。
たとえ障害者であっても、社会のルールは守らなければいけないから。
多くの人が共存する社会というものは、ルールによってお互いが守られている。
赤信号を守って止まる車がいるから、発達障害の人も轢かれないで済んでいる。
なのに、発達障害者は赤信号を無視して人を轢いてもよいという理屈が、成り立つ訳がない。
『ルールの遵守』と『目的達成』がなされて、初めて「努力している」と認められるのだと思う。
認めるのは他人であり、自分(発達障害の当事者)ではない。
自分が認めるというのは自己満足で、発達障害の当事者はそこで終わってはいけない。
また、100%出来ないからと言って投げ出すのも違う。
どうしても信号を見落としてしまうことがあるとしても、その回数を3回に1回よりは5回に1回、10回に1回と減らしていく努力が必要である。
たとえ見落としが0(100%の成功)にならなくとも、無意味ではないということを発達障害の人には知ってもらいたい。
発達障害の人には0と100の大きな違いしかわからないのかもしれないが、定型は20と30の微々たる違いも気づくことができる。
努力を続ければ結果が積み重なる。
その積み重なった「結果」に気づく定型は必ずいる。
その結果を人は評価する。
一方で、定型は発達障害者に定型と同質同量を求めてはいけない。
同じやり方や同じ努力量で出来ないからこそ障害と呼ばれるのだから。
不恰好だったり、定型なら1回で覚えられることが3回も5回も必要だったりしても、無能扱いしないこと。
定型であることは偉くもなんともないのだから。
逆に、定型には難しいことが発達障害者には一発で出来ることもある。
発達障害をバカにすることしか出来ないのなら、彼らを導くことなど出来ない。
「努力しないアスペルガー」は、努力の仕方や、そもそも努力して物事を解決するということを、知らないで育った人でもあると思う。
そして、その責任はアスペルガー当事者よりも、定型が作った社会により多くあるのではないか。
生まれつき他人に関心があり、見よう見まねで学ぶことが出来る定型。
それに対し、良い手ほどきを受けなければ関心が向かず、人の内面を感じ取ることができない発達障害。
今、迷惑をかけている発達障害者の多くは、自分が定型とは違うということさえ教えられないで育った人達だろう。
定型は発達障害の人に対し、時に「ちょっと変わってるだけ」「何も問題ない」と言い、時に「おかしい」「普通にしろ」と言う。
定型の思い通りにさせることが、障害を持った人の社会適応ではないはずだ。
奇妙に見えるだけなら、個性として受け入れる必要がある。
その奇妙さを嫌う自由が定型側にもあるが、ならば定型から離れれば良い。
自分は離れない(努力しない)で、相手(発達障害者)にだけ変わってほしいというのはわがままでしかない。
反対に、いくら普通に見えても問題を起こしているのなら、障害者であろうと協力して解決しなければいけない。
障害者を理解するというのは、当事者だけに努力を求めることでも、当事者に何もさせず無条件に許すことでもない。
それは理解ではなく単なる切り捨てだと思う。
「努力してる」と思っている発達障害の人が、定型からその努力を認められない要因の一つに、「確認作業」をしないということがあると思う。
発達障害の人は、努力はしてもその努力がどういう結果を生んだかを確認しない。
一言で言えば、発達障害者の努力は『独りよがり』なのだ。
努力は「目的」ではない。
努力は何かを解決するための「手段」であり、定型が求めているのは努力によって事態が「改善」されることである。
なのに、発達障害の人はその努力の「結果」を見ずに、自分が努力しただけで「目的」を果たしたと言ってしまう。
例えば「左右を見てから横断歩道を渡りなさい」と言われたとする。
しかし、それでも車の前に飛び出てしまった。
これでは、左右を確認した意味がない。
左右を見るという努力は、横断歩道を安全に渡るための「手段」であり、横断歩道を無事に渡ることが「目的」であるからだ。
ただし、発達障害者には「左右を見て」だけでは指示がわかりにくいのだと思う。
「車や自転車が来ていたら止まりなさい」「人とぶつからないように気をつけましょう」くらいまで言わないとその目的がわからないのだ。
これらを教わり損ねた発達障害の人は、自分がこれから沢山のことを学ばなければいけないことを自覚すべきである。
定型もまた、これらの発達障害の人と関わる際には、定型なら幼少期に自然と覚えるようなことから全てを、根気よく教える覚悟と技量が必要である。
どちらか一方にでもこれらの気概がなければ、人間関係を続けることは不可能だと思う。
最後に元ネタに話を戻すと、「離れなければいけない発達障害=努力しない発達障害」ではない。
このブログを訪れる定型の多くは、カサンドラかそれにに近いくらい無理をしている。
無理をしてしまった理由の1つに、基準を相手にだけおいてしまったことが挙げられると思う。
「障害なら理解しなければ」「努力してるなら認めなければ」と、頑張りすぎていないだろうか。
障害だろうが努力してる人だろうが、手に負えないものは負えない。
手に負えるものだけ引き受けるのが、責任ある態度ではないだろうか。
だから、今の自分の力量を基準に決めるべきなのだ。
「助けられなかった」などと自分を責める必要はない。
あなただって助けてもらえる存在であり、今まさに助けが必要かもしれないのだから。
疲れたら休む、嫌ならやめる、苦しいなら逃げる。
誰もが、自分が楽に健やかに過ごせる道を選んでいい。
《関連》
『誰が』今を変えたいのか① アスペルガーの望む世界、定型の望む世界