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離れなくてはいけないタイプのアスペルガー

この記事に、発達障害を支援しているという方から、こんな指摘をいただいた。


《一部引用》

関わるということは、障害を持つ持たないとは別の人間ひとりの多様性を認めて、自立していく過程に携わることではないでしょうか。

物事をひとつの方向から見たら、ひとつの答えしか出ません。

人間の多様性を認め尊重し、相手を受け入れることが相手を生かすことだと思います。

ひとつ考えは争いを生む。

多様性を認め離れるなら離れる。

それが新しい一歩になると私は思います。

一個人的に言えば憎しみだけのブログに感じます。

《引用終わり》


正論でありその通りだと思うけど、
『人間ひとりの多様性を認めて、自立していく過程に携わる』
というのは、やはり支援者の立場だからこその意見だと思う。

家族や友人は、自立を見守るというよりはお互いに支え合って生きていきたいのでは?
親や配偶者に期待するのもある程度自立した大人だから、これから自立していくと言われても困るよね。


要約すると、
「(僕の)主張は一方に偏っていて、憎しみだけをぶつけている。人の多様性を認めていない」
ということなのかな。

この記事を書いた当初はその通りだったようにも思う。
本当に心底ムカついていて、絶対許さないくらいの気持ちだったろうから。

ただ、言い訳にはなるが、今はその当時と状況も違っているので、少なくとも当時の強い憎しみの感情はない。
別に許してもいないが、許すとか許さないとかという問題じゃないと考えている。

それに、僕が離れろと言っているのも、『多様性を認め離れるなら離れる』に他ならない。
違いがわかったからこそ、離れる決断をしようという話をしたつもり。

カサンドラになってしまう人は、何が何でも離れないで関係を保とうとしてしまうから。
「逃げていいよ。自分を守っていいよ。他にもっと大事なことがあるよ」
と言いたかった。

発達障害者に困っている人達にその意図が伝わっていないのだとしたら、僕の文章力の無さだと思う。
相手が発達障害なら憎んでもいいとか、見捨てて当然とか、そんなことを言いたいわけじゃないので、これからも伝わるように少しずつ補足していきたい。

どうも、立場によって発達障害に対する印象というのは大きく異なるようなので、ちょっと状況を整理してみる。



【発達障害者と定型の関わりの変遷】

1、出会い
2、違和感噴出
3、行き詰まり
4、障害発覚
5、障害受容
6、相互協力 or 相互分離
7、障害理解


ざっとこんな感じだろうか。
2、3、4くらいの段階にいる定型が、このブログの読者には多いかなと思っている。
この分類は僕が勝手に作ったものなので、以下、簡単に解説。


1、出会い
場所や出会い方に特殊性はないと思う。
後から振り返れば、最初から発達障害の要素が見られる時もあるが、大抵は何の問題もないだろう。
寧ろ、定型は発達障害ゆえの良さに惹かれ、面白いとか誠実とか素直とか、好印象を持つことも多いのでは?

2、違和感噴出
発達障害の人に、迷惑行為や問題行動がよく見られる時期。
忘れ物や遅刻が多いとか、約束を守らない、バレバレの嘘をつくなど、ある程度説明のつくものもあれば、関わった人にしかわからない言葉にできない違和感もある。
定型同士の誤解やすれ違いとは違う、コミュニケーションの取りにくさを感じる。

3、行き詰まり
定型から見ると問題が解決しそうになく、むしろ悪化しているとも言える状態。
原因がわからないことや、友人などに相談しても理解されないことで、より追い詰められる。
限界に近づくほどカサンドラ症候群になると思われる。

4、障害発覚
違和感やすれ違いの原因がわかる。
定型からすれば、本人のやる気の問題に思えたことも、脳の機能障害のせいであると知る。
表面化する言動の原因を知っただけなので、発達障害者本人の世界観を正しく把握しきれず、まだ誤解や偏見もあったりする時期。

5、障害受容
功罪両面を知り、必要な場面での適切なサポートを考えられるようになる。
規則やルールを守らせるよう明確な指示を出したり、気を利かしてくれることを期待しないでいられる。

6、相互協力 or 相互分離
本人も発達障害を自覚し、定型と協力しあえるようになる時期。
もしくは、協力は不可能と判断し定型が離れる時期。

7、障害理解
発達障害の特性を知ることで定型の特性も自覚し、状況に冷静に対応できる段階。
身近に発達障害の人がいる場合、自分も発達障害者の側としてフォローすることが出来る。
定型に対しては、発達障害者の通訳として発達障害者の心中を代弁し、発達障害者には、定型の意図やその場の状況を説明することが出来る。



例えば、1の出会ったばかりの人は、発達障害者は変わってるけど、面白くて大好きかもしれないよね。

2の違和感を経験すると、色々現実的に困ることも出てくるかもしれない。

3に近づくと随分追い詰められてきて、時には殺意を覚えるほどになったり。
自分がおかしいのかと悩み、泣いてばかりってことも。

障害だとわかって4の段階に入っても、本人が自覚しないと何も変わらなかったり。

1や2の初期の人と3の末期の人とでは全然違うと思うんだよね。


上で引用した『離れなければいけない……』は、僕が3の末期から4の時期に書いたもの。
心理的には、散々傷つけられて、いいだけ我慢して、殺したいくらいの憎しみを持っていた。
それでも思い直して、親のことを信じて頑張ろうとするも、ことごとく裏切られた時だったと思う。
こんなクズ共は自分から捨てるんだって決意しないと、また信じたくなってまた傷つくのが目に見えていた。

障害を理解しなくていいわけでもないし、ムカつくからって切り捨てていいわけでもない。
でも、それ以上親と関わっていたら、僕の心は今よりはるかに死んでいたと思うんだよね。
子供がこれだけ苦しんでいて気づかないって、いくら障害でも、僕は親とは認められないし。

誰もが7の障害理解というゴールにたどり着けるわけではないことは、わかってほしいなと思う。


支援者の方だと、本人も周囲の人も発達障害だと自覚があって接するので、また違うだろうね。
その辺はまた今度書こうと思います。
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最近、将棋界が熱い。
将棋が全くわからないという人も、藤井聡太四段のことは知っているのではないか。

かく言う自分も、生中継をこれほど熱心に見たのは初めてだ。
将棋は小学校低学年の時に祖父に教わったが、せいぜい詰将棋3級とかそんなレベル。
中学生の時にテレビで目にした若手棋士は、もうタイトル保持者になっていた。

羽生善治三冠がついに七冠達成と騒がれていたのが、確か大学生の時で。
今は自分で頭を使う気にはなれないので、これからは観る将になりそう。


ここからが本題だが……

棋士はとにかく変わり者が多いことで有名だ。
そして、そういった人が発達障害であることも珍しくないと思う。
ただし、障害という言葉からイメージする困難だけでなく、凡人にはない卓越した能力も兼ね備えているのだろう。
こういう人を日本では『天才』と雑多に扱うことが多いが、教育学の分野などでは『ギフテッド』と呼ばれることがあるようだ。


ここでいつも思うことがある。
同じ要素を持っていても、その能力がどう顕在化してるかによって、あまりにも認識が違う。

藤井くんのように、特定の分野で才能を発揮すれば『天才』と呼ばれる。
片や奇行が目立ち、際立った才能が見えなければ『変人』扱い。
そんな人が診断を受ければ、医学的には『発達障害』と言われる。

天才と変人と発達障害は同じではない。
だが、重なる部分がある。
しかし、どう呼ばれるかによって印象は随分違うと思う。
しかも、天才と称されれば、過去の問題行動でさえ天才ゆえと肯定化されてしまうことがある。


藤井くんの母親は、彼は生活能力が低いと語っている。
コンビニでお弁当一つ買えないとか、泊まりで出かけたら洋服を忘れてきてしまったとか。
それが本当であれば、今後も訓練が必要なのだと思う。

発達障害の場合、好きなことには極めて強い熱意をもって励める半面、必要とされることは最低限もこなせないというところがある。
定型は、歯磨きだって掃除だって、好きだからやってるわけではない。
日常においてどうしても『必要』だからやる。
だが、発達障害の人はこの感覚が乏しいように思う。

藤井くんも、エピソードを聞いていると日常生活はまだまだ困難で、親御さんもそこは心配なのだと思う。
定型からすると、将棋で何手も先を読む方がはるかに難しいのだが、彼には日常の些細なことの方が難しいのかもしれない。


また、エピソードの中には、将棋のことばかり考えていて電柱にぶつかったとかドブに落ちたというのがある。
棋士にはよくある話のようだが、これは発達障害で言えば過集中というものである。
1つの物事に熱中しすぎて、周囲が見えなくなってしまう状態。

藤井くんの場合は、それが将棋だったので天才棋士のエピソードとして驚嘆される。
だが、例えば授業中に昨日読んだ本の妄想で一杯になってしまった子は、過集中そのものを問題視されるかもしれない。

藤井くんだってドブに落ちていいわけではないので、誰かが止めてあげるなり本人も切り替えスイッチを持つことが必要になる。
でも、「熱中し過ぎるから、これ以上将棋はダメだ」と言って取り上げてしまったら、天才棋士藤井聡太は生まれていないだろう。
それどころか、溢れんばかりの将棋への情熱を発散出来ないために、心身ともにバランスを崩してしまったかもしれない。

同じように、妄想で一杯になる子に対しても、寧ろその世界がもっと広がるように手助けしてあげたらいいと思う。
妄想ばかりしてしまうのなら、妄想するために勉強すればいい。
たくさんの国や文化、人種、言語、実体験、フィクションなど、多くのことを知ればそれだけ妄想も広がる。
それがその後の職業などに結びつけばもちろん有効だ。
だが、そうではなくても1つ生きる原動力を持てば、他の困難を乗り越えようとする力も生まれるかもしれない。

凸凹を無理やり矯正してもいいことはない。


藤井くんのような天才は作れない。

ギフテッドは先天的なものである。
発達障害も同じで、発達障害になることも発達障害が治ることもない。

彼と同じようにスタディ将棋やcuboro(キュボロ)を与えたところで、我が子は天才にはならない。
彼はもともと先を読む力や空間認識に優れていて、その能力と興味に合ったオモチャがたまたまこれだったというだけだろう。

与えて失敗だったもの、全く興味を示さなかったものも相当数あるのかもしれない。
個人的にはそういう失敗談がすごく聞きたいのだが、あまり報道されないだろうな。


藤井くん自身は、ギフテッドとも発達障害とも言っていない。
公表していない著名人に対し、良くも悪くもレッテル貼りをすることにはためらいがある。
しかし、よくある範疇の話ではないということを理解してほしいという思いもある。

例えば、過集中の状態というのは、すごく集中力があるというよりは、それしか見えなくなってしまっている状態だ。

寝食忘れて没頭することは、定型でもある。
たが「お腹すいた。何か食べなきゃ」「そろそろ寝ないとヤバイな」という意識はかすかに残っていると思う。

ところが発達障害の人は、気が付いたら倒れていることもあるようで。
空腹に気づかない、気づいても何か口にするという判断が出来ない。
止めないと危ないのだ。


障害という言葉を用いなくとも、その人のその状態を正しく把握出来るならそれでいいと思う。
仰々しく名前を付けて区別しなければいけないのは、似たようなものと混同されて誤った対処をされてしまうからだ。
天才を努力で作れると思っていれば、発達障害も努力で治ると思ってしまうだろう。
そうではないということを受け止めて、初めてサポートが出来ると思う。


人はその秀でた才能のみを羨むが、実際はその才能と同じくらいの困難や生きづらさを抱えているかもしれない。
だから、藤井くんの才能だけを羨んだりはしたくない。

それでも、僕は彼が羨ましい。

幼くして大好きなものを見つけられたから。
その大好きなものに熱中することを親が許してくれたから。



因みに、将棋の対局は将棋を知らない人が見てもなかなか面白いと思います。
やっぱり個性的な人が多いので。
仕草や持ち物、何を食べてるかとか、将棋以外のところも注目です。

さて、今日26日(月)は新記録29連勝をかけて、藤井聡太四段が増田康宏四段と戦います。
ネットとケーブルテレビで中継があり、初心者用の解説もするようですね。
今日はちょっと落ち着かないな。


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先日、加藤諦三先生が「一升徳利に二升は入らぬ」という話をされていた。
この相談者の人は、自分の器以上のものを引き受けてしまっているという。


僕はこの話を聞いて、カサンドラ症候群になる人は、まさしくこの状態にあるのではないかと思った。

これまで、その発達障害の人と離れるべきかやり直すべきかは、
まずは「あなた自身の都合で決めましょう」と言ってきた。
それは、発達障害者自身がどんなに努力しても、周辺者が出来ることにも限界があるからだ。

カサンドラになってしまう人は、発達障害者と共存する力がないのに、その困難を引き受けてしまっているのではないだろうか。


また、諦三先生は
「正しいものと正しくないものから、正しいものを選ぶのは易しい。
しかし、正しいものと正しいものからどれかを選ぶのは難しい」
とも仰っていた。

相談者は、父親を助けてあげたいが、そうすると、結婚して築いた今の家族に迷惑がかかるので、どうするべきか悩んでいた。

『父親を助けること』も『今の家族を守ること』もどちらも正しい。
だから、相談者は苦しんでいると指摘されていた。


発達障害者と離れるべきかかどうかも、まさしく正しいものと正しいものから選ぶという作業だと思う。

『障害を理解し共存していくこと』は正しい。
一方で、『自分の心身を守ること』も正しい。

カサンドラになってしまう人は、後者を忘れてしまっていないだろうか。


正しいものと正しいものからどれかを選ぶ場合、優先順位が大事なのだという。

相談者は、父親と疎遠になるのは、育ててくれた恩義を忘れ、見捨ててしまうように感じているようだった。
一方で、今の家族が一番大事だとも自覚していた。


相談に対する答えはこうだった。
もう1人の弁護士の先生曰く、
「親が子供を育てるのは当たり前。
それを恩に感じる必要などない。
生きていくためにはズルくならなくてはいけない。
父親にも今の家族にもいい顔をしていては、生きていけない」


この相談者が育ててくれた親の恩に引きずられる気持ちは、すごくよくわかった。
ずっと誰かに
「親が子供を育てるのは当たり前。それを恩に感じる必要などない」
とはっきり言って欲しかった。

毒親は子供に対し非常に恩着せがましい。
だから僕もずっとその呪縛にあった。

発達障害者にも似たようなところがあって、被害者意識が強く人のせいにばかりすることがある。
発達障害者からすると、何が起きているのかがわからず本当に辛いのだと思う。
だが、周辺者がこれをそのまま許していては身が持たない。


手に負えないものを手離すのは、卑怯でも何でもない。
寧ろ、手に余るのに抱え続けるのは、その人を縛りつけているのではないか。


今一度聞きます。

その発達障害の人とあなた自身と、どちらが大事ですか。
その発達障害の人とその人以外の人、誰が一番大事ですか。


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カサンドラ症候群