お金とは、通常の意味では「価値の交換」「商取引」などといった商学経済学の意味で考え進められる。
しかし実存哲学的に考えると少々趣は異なる。それは「世界精神」という見知らぬ者に対する信用度合である。「世界を支配する精神とは何か?」を突き詰める際に、必ず必須となる精神的直観である。
「見知らぬ者」と表現したのは、それは顔見知りのお友達に対する信用を測っているのではなくて、初対面の、しかもその名前や素性が全く分からない人々に対する信用を測っているからである。
そういうものの数量化としてお金という物質が使われているに過ぎない。いや、数量化が本質なので、別にアルミや銀、紙といった物質を使う必要がなく、まさに貯金通帳の「印字」で事足りるのだ。
よってお金の流れとは実は直観的に(或いは本能的に?)感じられるものであり、論理的に構築的に考察されるものではない類のものである。何故なら、それは個々人の生き死にに直接関わる「実存」的なものだからである。「不景気になると、全体的に個々人の所得が減り、それに伴って貧困層が増え、従って社会が不安定化する」という風に経済学的に言えるが、そういう考察の中にはすっぽりと自己自身とそのお金の関係が抜けている。そういうセリフを吐ける経済学者は、大学の講義でそういうセリフを吐くことで毎月安定した給料をもらっている。
そういう直観の中では、赤字国債は大変奇妙な存在である。勿論巷では色々な論理的な流れによってその「赤字国債」を色々解釈をしており、それらすべては一理ある。しかしながら、経済は化け物である。化け物をそんな個々人のワラのような論理で突けるものなのか?直観的には奇妙である。要は「いったい誰がこの実存的負債を背負っているのか」である。
「将来世代だ!だから今のうちにその負債額を減らそう」というのは模範解答ではあるが、実存的にはあまり的を得ていない。お金というのは「見知らぬものへの信用」であり、それは現在的な者への信用の戦いだからである。今現在の金貸しは「未来」という得体のしれない者に金を貸しているのか?
そもそも返せる当てがあるから金貸しは金を貸すのである。文字通り、返せる当ての全くない「未来者」に何故金を貸していると言えるのだろうか?そもそも「金貸し」というのは我々個々人の想像を絶するくらいにとても巧妙である。返せる当てのないものに金を貸すはずがない、と考える方が身のためだ。金貸しは必ず返せる当てのあるところに金を貸しているのである、と考える方が身のためだ。
これは言うまでもなく比喩だ。ここでいっている「金貸し」は、いわば世界精神の化身である。必ず投下資金を回収する意味で最も狡猾な金貸しである。その金貸しはまさに今現在生きている「我々」に対してお金を貸している。「将来」という得体のしれない空気にではなく、今現在生きている我々にだ!
ここでいっている「お金」も、何度も言うが比喩だ。具体的には「見知らぬ者への信用」を意味している。この概念自身も実は現在的である。今現在生きている個々人が、正に今現在「見知らぬ者」から信用を得るために必死になっているのである。
要は、「赤字国債」と言えども、本質的には「見知らぬものへの信用獲得への戦い」と何ら変わりはない。要は(現在的な何かに)化けているのである。オレオレ詐欺者が息子に化けるが如く、「赤字国債」も巧妙に(現在的な)何かに化けているに過ぎない。未来は空である。