責任の追及の仕方。


いじめ問題による自殺などの事件で思う事だ。
ニュースがある度にいつも思うけれど、
どうも今の社会は責任追及の仕方がおかしい。
その事が責任の取り方をおかしくさせてる。
おかしな責任の取り方を求められる為に、
隠蔽をしようとする事になる。




まいど、マキシです。




今の社会(から感じる傾向)は、
安易に責任追求し過ぎてる。
責任の追及の仕方を考え直すべき。


責任の追求の仕方がおかしいから、

責任の取り方もおかしくなる。

この悪循環が起きている。
おかしいのは、求める謝罪とその謝罪を求める相手。

例えば担任教師の言葉でいじめを誘発し、
一人の男子生徒が自殺したという事件。

この場合は誘発というのだから、
実際に自殺する程に追い詰めたのは他の生徒。
であれば例え担任教師の言葉が切っ掛けであろうとも、
担任教師は他の生徒を叱るべき。

自身の発した言葉については反省するにしても、
実際にいじめを行った他の生徒を叱らなければならない。
自身の発した言葉については謝るにしても、
男子生徒が自殺した事については、
いじめを行った張本人である生徒に向かって謝ってはいけない。


自殺まで追い込んだのは担任教師でなく他の生徒なのだから、
生徒の方は担任教師の謝罪を受ける立場にはない。
自殺した男子生徒に謝罪すべき立場であるのはもちろんだけど、
クラスに責任を持つ担任教師に対しても謝罪すべき立場。


担任教師が叱り、生徒は謝る。

こうあるべき。これが然るべき姿。


男子生徒の親に対してはこの担任教師は謝らねばいけない。
自身の言葉とクラスの管理が出来てなかった事に対して謝らねばいけない。
学校運営に責任を持つ校長に対しても謝らなければいけない。

校長はまず担任教師を叱らねばならない。
そして調査を行い、調査結果を元に担任教師に責任を取らせる。
また、このような事が起こらないような対策を立てる。
これらの報告を教育委員会にする。
これが校長の仕事であり果たすべき責任。

校長が男子生徒の親に対してすべきは担任教師に謝らせる事と、
その担任教師に対してどのような処分を下したかの報告。
謝罪は気持ちの表明としてのものだけでいい。

県教委は校長の報告を受け、検証する。
そして教育委員会としての対策を考え、
他の学校に対して通達を出す。
男子生徒の親に対しての謝罪はしない。
お悔やみだけでよい。

文部省も県教委と基本的に同じ。
報告を受け対策を考える。

男子生徒の親が求めていいのは上に書かれた事のみ。
他の生徒からの謝罪、担任教師の謝罪、校長からの報告のこの三つ。

謝罪には賠償を伴わせていいが、
伴わせていいのは謝罪のみ。
つまり賠償を求めていいのは担任教師と生徒のみ。

以上が本来あるべき形。

かつてはこの形であった。(と思う)
これであれば校長も教育委員会も隠蔽する事はなく、
事の顛末を詳細に調べる。
何が出てきても自身が責任を問われる事はないし、
逆に調べないと責任を問われてしまう。
保身を考えるなら、尚更調べようとする事になる。

ところが、校長や県教委に責任を取らせようとするから、
責任回避の為に隠すようになる。
調べれば調べる程自分の首を締める事になるから調べない。
結果、隠す。

こうなるのは当然。

また校長や県教委に責任を問おうとするから、
肝心の担任教師がなおざりになる。
それが度を越えておざなりになったりもする。
有耶無耶になって大して責められない、
下手したら形だけの責任しか問われないなんて事になる。

生徒に至っては全然責められない。
逆に教師や校長からの謝罪を受ける始末。


実際にいじめた生徒は、

きれいに逃げおおせてる。

これではいじめた生徒は反省しない。
反省も悔やむ事もなく、
大して心に残る事もないかも知れない。
「ちょっといじめたら自殺しやがった」
ぐらいにしか思わないかもしれない。

子供をあまり責めると心に傷を負う、

なんて今の世間は気遣うのかも知れないが、


人一人を死に追いやったのだから、

心に傷を負うぐらいで丁度いい。


少なくとも、もう二度といじめはすまいと思うくらいには、
子供だろうが相応の傷を心に負って然るべきだし、
それでこそ反省も成長もする。

いじめた生徒を責める。叱る。
切っ掛けを作ってしまった担任教師を非難する。
クラスを管理しきれなかった担任教師の責任を問う。
これこそをすべき。

もう悪循環に入ってしまっている為に、
現実問題でこれらの事件では校長にしろ県教委にしろ隠蔽を図る。
こうなれば非難されても仕方ない。

しかし非難は隠蔽した事に対してのみにすべき。
男子生徒が自殺した事についての責任は、
校長や県教委に対して問うべきではない。
これをやってるとますます隠すようになる。
決して良くはならない。


今の社会(から感じる傾向)は、
安易に責任追求し過ぎてる。
責任の追及の仕方を考え直すべき。
非難の的は自分自身。

そんな事を気にしてたら書いてないよ。
そんな内容のエントリーが過去にどれだけある事か。
・・・という訳で、

先日ちょっとテレビを見てたらね、
思わず口に出ていた愚痴を少々、と言うか独り言をば。


まいど、マキシです。



なんでか知らんがたまたまNHKこどもニュース見てたのね。
そしたら、その番組にゲストで来てた子供の声ですよ。


「先生までいじめたらいじめられてる生徒は
 どこにも助けを求められない」


いや、一見すると確かにと頷いちまいそうだけど、
これは絶対に違うんだよね。

いじめてない生徒が助ければいいだろうが。

ってな話です。


「自分もいじめられるかもしれないから助けられない」

いやいや、そうだねなんて言って擁護しちゃう大人が目に浮かぶけど、
これも絶対に違うんだよね。

言い訳してんじゃねーよ。
そりゃ見て見ぬフリってやつであって、
十分非難されるに値する悪い事なんだよ。

堂々悪い事やってますって言うなボケ!


ってな話ですよ、本来。

そもそもね、それ以上に思ったのはね、
いや、だからこそ必然的に思ったのが子供の発言内容よりも何よりも、

司会の大人!!
ウンウンって頷いてんじゃねーよ!

ってな話ですよ。マジで。

ん、分かる。いや、わかるんだよ。

でもね、もしも最初の一文で、思わず同情したくなったとしても、
そこで共感や同調してはならない。大人はね。
もちろん、理解はしてあげねばならない。絶対に。
理解して受け止めてあげなければならない。絶対に。

でも、子供のこれらの言葉に共感や同調して、
それでいんだよ、君は悪くないよと言うのは間違い。

絶対に間違い。

最初の主張において教師を擁護する理由は確かにないよ。間違いなくない。
教師がいじめに加担してたら、そらあかんよ。
でもね、違う。
最初の主張から読み取れる非のある人間は、確かに悪い。
でも、それを言うならいじめの解決を教師に依存してる時点で間違い。
誰よりも何よりも、いじめは当人と当人を囲む人間達で解決すべき問題。
子供だからとか関係ない。


・・・いや、僕だって人の子ですから。
言い分は分かるよ。理屈じゃそうでも現実は~とかね。
でもそんな事いったって仕方ない。
じゃぁ現実に合わせて何ができるの?と。
時代背景で難しくなってるのも分からなくないが、
それこそ絶対に言い訳にして流してはならない。
現状も今後も事態は何も好転しない。
その点において大人は頷いちゃダメ。

大人のすべき事や教えること、フォローすべき事は沢山ある。
考えりゃ分かる事なのに出来てない事が沢山ある。
でも、大人が解決してやろうとするのも間違い。
子供たちが自分達の力で解決できるように、
導いてやるのが教育。 
それが大人達の義務でしょう。

ここからは長くなるからまた今度w

推定無駄骨の試み。


不図した瞬間に不意に頭に浮かぶ言葉や思考に、

ふと我に返ると意外な程の時間を費やしてしまう事がある。





まいど、マキシです。




不意に訪れては己の思考時間を占有する、

そんな不図した物事、

得てして多い奇妙な反語やらパラドクスやら格言やらを、

特にカテゴライズに拘る事無く、

というか囚われる事なく、

とにかく思いつくままに羅列する事で、

思考時間を意図的に排除できないかのテスト。



・新規の投稿と無投稿との禁止

(しんきのとうこうとむとうこうとのきんし)


・この世界は不平等に不平等が分け与えられている


・無条件が条件だ


・自己中心的な左翼と右翼


・戦局を左右する中立派


・どうして杉を「ハナミズキ」と名付けなかったのでしょう。


・みんなの歌には著作権がある


・初めの日、神は「光あれ」と言った。光速は不変となった。

 二日目、神はエネルギー保存則を創った。

 三日目、神は重力定数を定めた。

 四日目、神はプランク定数を定め、排他律を創った。

 五日目、神は物質と反物質を分け、クォークに色を塗った。

 六日目、神はエントロピーの増大を開始した。こうして宇宙は開闢した。

 七日目、神は休んだ。以来、億年間休みっぱなしである。


・ひきこもりの人って本当にいるのか?全くみかけないが。


・世論調査が信用できるかどうかについて世論調査すべきではないか。

 だが世論調査によって「世論調査は信用できない」という結果は信用して良いものか。

 世論調査により世論調査が信用出来ないのならば、その世論は世論ではない。

 然るに世論調査はハナから信用できるものであると信用しなければならないのか。


・友人のN君は同じ事を繰り返して言う癖がある。

 私は同じ事を聞いたり言ったりするのは大嫌いなので、

 「同じ事を言うのはやめろ。」と言う。

 N君は一端はやめるが、また話が堂々巡りをして同じ話をしだす。

 私は「同じ事を言うのはやめろ。」と言う。

 ところがまたしばらくすると同じ事になる。

 私は、「同じ事を言うのはやめろ。」と、同じ事を何度も言う羽目になる。


・気配を消そうとしている気配がする事がある。

 その際は気配を消そうと気配りをする気配を消す気配りが足りない。



・・・不意に消費してしまう思考時間を排除する為に、

その思考要素を意図的に書き出す事で思考そのものを先送りに出来ないか、

意図せずして脳内を占拠してしまうこれらの思考を放棄できないものか、

ただのそんな試みです。


もしもその場で書き出せる状況に無ければ、

これらを書き出す為にも忘れない内に携帯にメモっておいてはどうか。

いや、それが出来るなら既に目的は果たしているのだろうか。

つまり、思考要素を携帯にメモる行為は思考する事と相似なのではないか。

また、逆に言えばそうする事自体が既に、

思考要素に囚われ思考時間を費やしている事になるのではないか。


・・・こんな事を考え出してしまう時点で、

無駄な思考の放棄どころか新たな無駄な思考を生んでる気がしないでもない。

という事は結局、余計な思考の放棄など不可能なのだろうか。

この努力や試みは無駄な思考の放棄にはなり得ないのだろうか。


うん、ふと気付けば延々と考えてしまっているから、

結局は無限ループになる事もやぶさかではない。