テギョンが病室のドアを開けた時、目に飛び込んできたのは必死の形相でぬいぐるみに話しかけているミニョと、骨があれば確実に首の骨が折れていると思われるほどうなだれているテジトッキだった。その光景にテギョンは、ミニョが不注意でテジトッキを殺してしまい、慌てている現場を目撃してしまったような錯覚に陥った。
室内にはここだけ別世界のような妙な緊張感が漂っている。このままドアを閉めた方がいいのかと一瞬頭を過ったが、すぐに思い直し遠慮がちに声をかけた。
「ミニョ?」
「オッパ!!」
「何だよそんな驚いた顔して」
「だってなかなか戻ってこないから、またこの子に入っちゃったんじゃないかなって・・・さっき目がキラッて光ったんです、だからオッパがこの子に入った瞬間かと思って・・・」
「そんなに簡単に入ってたまるか。それにもし入っててもそれだけ乱暴に扱われたら中で気絶してるぞ。俺はミニョがそいつを殺してるのかと思った」
「そんなことしません」
「そうか?死にそうになってるぞ」
テギョンの言葉にハッとしたミニョは、腕の中でぐったりしているテジトッキを慌てて壊れ物を扱うように抱きしめた。
テギョンが戻ってきて少しホッとしたが、ミニョの心は落ち着かなかった。それは妊娠したという告白に対してのテギョンの反応がよく判らなかったから。嬉しいとか困るとかはっきりした感情を見せないまま部屋を出て行ったテギョン。結婚しているわけでもないし、プロポーズされていたわけでもない。ただ恋人という関係の二人の間に子どもができた。ミニョは嬉しかったがテギョンがどう思っているのか判らない。そして今していることの理由も。
テギョンは身の回りの物を黙々とバッグに詰めていた。
「何してるんですか?」
「退院の準備だ、今からここを出る」
「今からって・・・退院するのは今週末でしょ」
「安静にしてなきゃいけないんだろ、そんな状態のミニョを一人にできないじゃないか。ちゃんと許可はもらってきたから大丈夫だ。俺のことより自分の身体の心配をしろ」
移動スピードは落ちるが両手が使えるからこっちの方が便利だと松葉杖も返してきたというテギョンは、片足を少し引きずりながら歩き、退院の手続きは時間がかかりすぎるとブツブツ文句を言った。もっともそれは、急に今から退院したいと言い出したテギョンが原因であって、予定通り今週末ならもっとスムーズに済んだのだが。
ミニョの妊娠を知り、その上安静が必要な状態だと聞いたテギョンは動揺しつつも、今自分ができること、しなければいけないことを瞬時に判断し、すぐ行動に移した。座ってろと言ったのはそこのベッドで横になれと言ってもどうせ寝ないだろうからせめて座っておとなしくしてろという意味だし、冷たく感じられた物言いはとにかく急いでいたから。
言葉が足りなかったのはテギョンも少しパニックになっていたせいだろう。だいたい、冷静でいられる方がおかしい。
決して拒絶されたわけでも放っておかれたわけでもない。急に出て行ったのもなかなか戻ってこなかったのもすべて自分のためだったと知ったミニョの目はみるみる潤みだした。
「オッパ・・・」
雨音にかき消されてしまいそうなほどか細い声とともに、まぶたにとどまりきれなくなった涙がこぼれ落ちた。
「どうした、痛いのか?大丈夫か!?」
ミニョの涙に気づいたテギョンは手を止めミニョへ近づいた。その距離は数歩だったが、とっさのことでついかばっている方の足で思い切り踏みこんでしまった。あっ、と思う間もなくズキンと痛みが走ったが、口から出そうになったうめき声を何とかのみこみ、頬を引きつらせながらミニョの顔を心配そうにのぞきこんだ。
「やっぱり寝てた方が・・・」
「いいえ、痛いとかじゃないんで大丈夫です」
涙声でふるふると首を振ったミニョは無理をしてそう言っているようには見えなかった。その証拠に涙が伝う顔は微笑んでいる。しかし大丈夫といった割には涙は止まらず、次から次へとあふれ出していた。
「一人でいるのが怖くて・・・安心したら何だか急に・・・」
胸の中に石がいっぱい詰まったような息苦しさ。
もう会えないんじゃないかという恐怖。
これからのこと。
抱えていた不安が安堵感に押し出され涙となって流れていく。
「ごめん、不安にさせて・・・」
テギョンは慎重に一歩踏み出すと、小さく笑いながら涙を拭っているミニョをふんわりと包みこむように抱きしめ、背中を優しくトントンとたたいた。
自分のせいで何度も流させてしまった涙。少し前まではテジトッキとして浴びることしかできなかったそれをやっと胸で受けとめることができたテギョンは、自分の身体に戻れた幸せをあらためて噛みしめていた。
「・・・家族になろう・・・」
低く静かな声が響いたのは、テギョンの胸の布が十分水分を吸った頃だった。
「え?」
突然降ってきた言葉にミニョは何かの聞き間違いかと濡れた顔を上げた。そこに再び「俺と家族になってくれ」と力のこもった声が降ってきた。
ついさっき“妊娠”という言葉でテギョンを驚かせたミニョが、今は“家族”という言葉でテギョンに驚かされている。声の出ないミニョを見てさっきの自分はこんな顔をしていたかもと思うと、テギョンは心の中でクスリと笑った。
「言っておくが、今急に思いついたとか子どもができたからじゃないからな。事故に遭う前から考えてたことだ。言うタイミングはもともと予定してたのとはかなり違うが・・・」
指輪を渡しながらプロポーズするつもりでいた。しかし事故で失くしてしまい手元にはない。こんなことなら目が覚めた時あの店に同じ物を注文しておくんだったと後悔したがもう遅い。
豪華なクルーズ船で満点の星を背景に・・・とか、特別会員限定のファンミーティングをしながらさりげなく・・・というのもいいなと考えていたのに、実際は消毒薬のにおう病室でパジャマ姿というあまりにも落差のあるプロポーズとなってしまった。しかシチュエーションよりも今の素直な気持ちを伝えたいと思った結果だった。
「返事は?まさかとは思うが断らないよな。そんなことしたら俺は自力でテジトッキの中に入るからな。それが嫌ならOKしろよ」
脅迫のような返事の催促に選択肢は用意されていない。とは言え、そこにいくらたくさんの選択肢があったとしてもミニョが迷うことはない。
強気な態度のテギョンの胸に耳をあてると、緊張しているのかとても大きく速い鼓動が聞こえる。
ミニョは温かな胸に額を押しつけるようにして「はい」と頷いた。