宿泊しているホテルを出てバスに揺られること数十分。窓から見えてきたのは数年前に建て替えられたという巨大な病院だった。
吹き抜けのゆったりとしたロビーには座り心地のよさそうな大きな一人掛けのソファーがいくつも並び、患者や近隣の人たちにも癒やしを・・・と、毎月行われるコンサートのためか、中央にはグランドピアノが設置されている。壁には有名な絵画が何枚も飾られていて、まるでホテルのロビーのような設備に、初めてここを訪れた時ミニョはテギョンに会うため焦っていて、タクシーの運転手に間違った場所を伝えてしまったと泣きそうになった。
何度来ても病院とは思えないロビーは、うっすらと消毒液のにおいがするのがアンバランスで不思議な感覚に包まれる。ミニョはここのコンサートはまだ見たことはないが、早くテギョンがここで演奏できるくらい回復するといいなと思いながら、入院病棟へと向かった。
エレベーターで目的の階に降り、毎日通ううちに顔見知りになった人たちとすれ違いざま軽くあいさつをする。テギョンの部屋の前に立つとゆっくりと深呼吸をしてからノックした。
「今日は・・・40分35秒遅刻だ」
ドアが開いた瞬間、持っていた時計から視線を入り口へと向けたテギョンは不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、口を尖らせた。
「昨日は10分50秒でその前は6分13秒。最近だんだんと来るのが遅くなってるな、たるんでるんじゃないか。どこで油売ってたんだ」
「中庭を通ってきたんで少しだけ遠回りですけど、急いできました。トイレには寄りましたけど・・・あ、バスが遅れました」
「チッ、バスか・・・・・・・・・じゃあ仕方ないな」
バスが遅れるのはよくあること。知ってはいるが気持ち的にはすんなりと納得できないテギョンは、拗ねている子どものようにムスッとした表情で尖っていた口を動かした。
「はい、仕方ないんです。でも・・・遅刻って何ですか?来る時間決めてませんよね。リハビリは午後からだし・・・」
「暇なんだ、文句言ってないでさっさと来ればいい」
「もう、そんなに早く私に会いたいんですか?」
くすりと笑うミニョにテギョンは咳払いで返事をした。
「暇だと言っただろ。一人でいても退屈で仕方ない、話し相手が必要だ」
「寂しいんですね・・・判ります、こういう場所は一人でいると特に寂しさが身にしみるんです」
「暇なだけだ」
「でも大丈夫です、今日はいいものを持ってきました」
そう言って“ジャーン”と擬音つきで紙袋から取り出したのはテジトッキ。抱っこをすると、テジトッキですよーと手を持って振った。
少し前までは一日中ずっとどこへ行くにも一緒だったテジトッキ。毎日テギョンと会っているのにそばにいないと何だか心に穴が空いてしまったように寂しくて、韓国から送ってもらっていた。
「私がいない間はこの子とお話ししてください」
「いくら暇でも俺がぬいぐるみ相手に会話すると思うか?」
「でもしゃべりかけたり手をつないで歩いてるとこを見たって、ずいぶん前にジェルミから聞いたことが・・・」
「そ、それは・・・見間違いだ、俺はそんなことしてない、するわけないだろ」
気まずそうにコホンと咳払いした口は否定しているが、スッと外した視線は泳いでいて説得力は少しもない。
「恥ずかしがらなくてもいいんですよ。私だってこないだまでは一日中おしゃべりして、お出かけも寝る時もずっと一緒でしたし」
「それは俺がそこにいたからだろ」
「でも不思議ですね、どうして私にだけオッパの声が聞こえたんでしょう・・・」
「それは未だに判らないな・・・って、俺に近づけるな」
ミニョはベッドで上半身を起こして座っていたテギョンの横に、ちょこんとテジトッキを座らせた。
テギョンは隣に来たテジトッキと距離を取ろうとしているのか、ズリズリとベッドの端に身体を移動させている。
「どうして避けるんですか」
「またこいつの中に入ったらどうする」
「もうオッパは昏睡状態じゃないんですから大丈夫ですよ」
「そう言い切れるのか?俺だって入ろうと思って入ったわけじゃないんだぞ。何かの拍子に入るかもしれないだろ」
「それはそうですけど・・・」
「俺はできる限り不安要素とは近づきたくない」
「心配性ですね」
「リスクマネジメント能力が高いんだ」
ミニョはテジトッキの方を見ようともしないテギョンに、何だか大切な家族を否定されたような寂しい気持ちになった。
「もし・・・万が一、オッパがまたテジトッキに入っちゃっても、私が元に戻るお手伝いをします」
「手伝い?どうやって」
「それは、えーっと・・・」
しばらく視線を上へ向け「う~ん・・・」と考え込んでいたが、何かひらめいたのかミニョの身体が動いた。
ギシリとベッドが軋む。
膝に体重をかけベッドへ這い上がったミニョはテギョンの頬を両手で包むとまつげを伏せた。
あっという間の出来事だった。
それはまるで風になびくカーテンに撫でられたかのようなふわりとした感触。
急接近してきたミニョの唇はテギョンに触れると余韻に浸る間もなく離れていく。俯けている顔をのぞきこめば、恥ずかしさからか赤く染まっていた。
「俺は眠れる森の美女か?でもまあ、確かに俺がテジトッキの中に入った状態で自分の身体にこんなことしてるの見せられたら、きっと何としても戻るだろうな」
ベッドが揺れた反動でころんと倒れたテジトッキの目は二人をじっと見つめていた。
ミニョにしてはいいアイデアだと笑うが一押し足りないとテギョンの手が伸びた。
「こんな一瞬じゃ何が起こったか判らないじゃないか。もっと俺の魂を揺さぶってくれないと」
ミニョを引き寄せるとさっき逃げるように去っていった唇を捕らえ深く口づけた。