俺は今、ここから少し離れたところにある、小さなホテルに泊まっている。
ずいぶん昔、この辺りはきれいな渓流と美しい自然を求め、観光客が急増した時期があったそうだ。
その頃に建てられたホテルらしいが、何年か経ち、隣の山にスキー場ができると客はどんどん流れ、今では宿泊客はそれほど多くない釣り人くらい。古い設備を直す金もなく、空調の故障で俺が部屋を変えてもらったのはこれで何度目だろう。
どうして俺がミニョの部屋に転がりこまず、そんなオンボロホテルに泊まっているのか。
ミニョの住んでいるアパートは古い。
そして狭い。
しかし理由はそんなことではない。
ここはダメだと気付いたのは、ミニョの部屋に泊まった翌朝だった。
深く重ねていた唇を離していく。
ゆっくりと開かれるまぶた。
俺を見つめる大きな瞳。
恥ずかしげに頬を染め、時々くすりと笑みが漏れる。
ずっと欲しかった俺の平穏。
手は出さないと言った手前、それ以上のことはできないし、ヨリを戻したといっても俺たちがつき合っていた期間はかなり短い。いきなり身体を求めて嫌われるんじゃないかと恐れる気持ちもあり、俺はミニョを抱きしめたまま、まんじりともしないで朝を迎えた。
ミニョが眠れるようにと電気を消した部屋に、朝陽が射し込む。起き出すにはまだ早いし、何より腕の中で眠るミニョを放したくなくて、俺はそのまま布団にいた。
俺の耳に聞こえてくるのは規則正しいミニョの呼吸と、鳥の鳴き声、そして・・・話し声?
ボソボソと少しこもったような・・・いや、意外とはっきり聞こえてくる会話。
部屋に誰かいるのかと辺りを見回した。しかし部屋の中には誰もいない。それもそのはずだ、声は布団の横の壁から聞こえてくるんだから。
耳をそばだててみると男女の声で、朝ご飯がどうとか、今日は天気がいいとか言っている。それとこれは・・・テレビの音か?
俺は小声でミニョを揺り起こした。
「ミニョ、ミニョ」
うっすらと目を開けたミニョは隣にいる俺を見て大きく目を見開き、勢いよく身体を起こすと、布団の上にちょこんと正座をした。
「テ、テギョンさん!おは、おはようございますっ!!」
「声が大きい」
俺は人差し指を口に当て、静かにとジェスチャーで伝えると、その指で壁を指した。
「これ、隣の音が聞こえてるのか?」
「はい、年配のご夫婦なんですけど、とても早起きなんですよ」
隣が年寄りの夫婦だろうが早起きだろうがそんなことはどうでもいい。問題は、会話の内容が聞き取れるほど壁が薄いということだ。
向こうの声が聞こえるなら、こっちの声も聞こえるはず。
「・・・・・・・・・」
寝癖を気にして恥ずかしそうに笑うミニョを見ながら、自制してよかったとつくづく思った。と同時に、もうここには泊まれないとも。
そんなわけで、俺はなるべく近くのホテルを探し、あったのが問題の鄙びたホテルだった。
宿泊客はほとんどおらず、人目を避けるにはちょうどいいと思ったが、まさかこうもたびたび喉をやられる羽目になるとは。
まあ、そのおかげで社長を納得させられたんだから、あまり文句は言えないけどな。
しかし、ミニョの部屋には泊まれない、かといって他にホテルはない。
俺は喉を気にしながら、頭を悩ませていた。
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