この場にいるのは二人だけだと錯覚するほど、そこはしんと静まり返っていた。
どれくらいの時間が流れたのだろうか。
テギョンの唇がゆっくり離れると、思考を停止させていたミニョの耳に、カランと氷の崩れる音が聞こえた。
夢見心地でテギョンの腕の中にいたミニョは一気に現実に引き戻され、今いる場所がどんなところなのかを思い出すと、恥ずかしさのあまり無言でその場を逃げ出した。
真っ赤な顔を俯け唇を噛むミニョ。その隣には口に拳を当てクスクスと笑うテギョン。
二人を乗せた車は空港へと向かっていた。
「もう、オッパ!どうしてあんなことしたんですか!」
声を殺して笑うテギョンに、ミニョはキッと涙の浮かんだ目を向け、テギョンの膝をポカポカと叩いた。
「写真、見せられたんだろ。だから今度はこっちが見せつけてやっただけなのに、何怒ってるんだ?」
顔が赤いのは怒っているからか、恥ずかしいからか。もちろん後者だということは判り切っているが、とぼけた顔でテギョンはそう答えた。
なぜヘジンはあんなことをしたのか・・・
ミニョとヘジンが対峙しているのを初めて見たテギョンが、ヘジンの様子からその理由を自分なりに考え、出した結論。
”ヘジンはミニョのことが好きなのではないか?”
突飛な考えだとは思う。ミニョは女だし、それは恋愛感情なのかという疑問もあるが、食ってかかるミニョを見ているヘジンは何だか嬉しそうに見えて。
相手の気を引きたくて嫌がらせをしてしまう、そんな感じに似ているような気がした。
といってもヘジンの場合、嫌がらせという程度ではとても済まないくらいのことをしてくれたが。
「ヘジンショックだったろうな、オッパのこと好きなのに。目の前でキスするとこ見せられて。」
「ヘジンが好きなのはミニョだろ。」
「前にも言ったじゃないですか、ヘジンはオッパのことが好きなんです。」
互いに相手の言っていることが理解できないという表情。
「そんなことよりミニョ、一体誰と会ってたんだ。」
「え?」
「ヘジンが言ってたぞ、前に会った時ミニョに親しそうに話しかけてきた男がいたって。誰なんだ。」
ぐいと詰め寄られ、ミニョは身体を逸らしながら、えーっと・・・と考え。
「あ!ソンジェ君です、幼馴染の。カフェで偶然会って。オッパからもらったネックレスのチェーンが切れて困ってたら直してくれたんです。」
ミニョはネックレスを首から外すと手のひらに乗せた。
「引っ張られて切れちゃって、落ち込んでたらソンジェ君が教えてくれました。これは私を護るために切れたんだって。オッパが私を護りたいっていう気持ちそのものだねって。嬉しかったなぁ・・・ほら、ここ、一つだけちょっと鎖が違うでしょ。私これを見るたびに、その時のこと思い出すんです。」
ミニョの顔が綻ぶ。
確かによく見ると一つだけ鎖の形が違っていた。
”ミニョを護りたいという気持ちそのもの”という言葉に、ふむふむ、その男はなかなかいいことを言うじゃないかと頬を緩めたのも束の間、その後の言葉にテギョンは口の端をひくりと引きつらせた。
「その時のことを思い出す?ミニョ、思い出すのはその男のことか?」
「何言ってるんですか、オッパに決まってるじゃないですか。」
「直したのはその男なんだろ、だったら必然的にその男のことを思い出すんじゃないか?」
「変なこと言わないでください。」
ミニョが再びネックレスを首につけようとしたその手をテギョンが止めた。
「これは俺が預かっておく、向こうに行ったらちゃんとした店でチェーンを替えよう。」
自分がプレゼントした物が、たとえ小さな鎖一つであろうと他の男の手によって変えられていることが気に入らないのか、テギョンはネックレスへと手を伸ばした。
「え?オッパ、ちょっと、やだ、やめてください。」
ネックレスを取られそうになり慌ててミニョはそれを手の中に隠す。
握られた手の中からネックレスを奪おうとするテギョンと、取られまいとするミニョ。その攻防のさなか、ミニョは「あ!」と大きな声をあげた。
「何だ、ごまかそうとしてもムダだぞ。」
「違います、今思い出したことがあるんです。さっきのお店でヘジンの後ろに座ってた人、どっかで見たことあるような気がしてたんですけど・・・私のバッグ盗ろうとした人です。」
「何!?ひったくり犯か!」
「はい、あの人だと思います。」
「くそっ、あいつそんなことまで・・・スンウ、さっきの店に戻ってくれ。」
「オッパ、どうするつもりですか。」
「あいつのせいでミニョは怪我をしてシヌが部屋に上がり込んだんだ。一発じゃ足りない、もう二、三発殴って警察に突き出してやる。」
「そんなことしたら今度は刑務所に入れられちゃいます。それに暴力はダメです。」
「そうですよテギョンさん、それにそんな暇ありません。マスコミがくっついて来てるみたいです。」
テギョンが振り向き後続車を確認した。
さっきの店には客のフリをした記者が何人かいた。ヘジンのしたことをバラせば当然記者たちはヘジンの周りに群がり、こっちへは来ないと思っていたが、どうも考えが甘かったらしい。
マスコミに嗅ぎつけられず静かに出発したいと思っていたテギョンは小さく舌打ちをした。
「撒けるか?」
「やってみます。」
スンウはハンドルを握り直した。
急にスピードを上げ脇道へ入り、赤に変わる直前の信号を駆け抜ける。しばらく荒い運転が続き、何とか尾けてくる車を振り切ると、テギョンたちの乗る車は無事空港へ着いた。
「悪いな、向こうに着いたらアン社長にはきちんと説明するから。」
「大丈夫です、それまでは何かあってもうまくごまかします。」
「オッパ、もしかしてアメリカへ行くこと、アン社長には内緒なんですか?」
「あたり前だ、言ったって反対されるだけだからな。何の為に俺がホテルでおとなしくしてたと思う?」
フン、と得意げに口の片端を上げるテギョンを見ながら、ミニョはふとあることを思い出した。
「オッパ、テギョンさんにお礼言ってません。」
「何?」
「だってUSB・・・」
ホテルでは防犯カメラの映像はコピーできないと言われたのに、いつの間にかテギョンが手にしていた証拠の映像。
「ああ、これか、これははったりだ。」
テギョンがポケットから取り出したのは全く関係のないUSB。証拠があると言ってそれらしく目の前に突き付ければ観念すると思っていたテギョンは、ミニョがテレビで流してもらうと言った時少し焦ったという。
「だからあの男に礼を言う必要はないからな。」
念を押すように力強く言い口を歪ませるテギョンに、ミニョはプッと小さく噴き出した。
「ほら、行くぞ。」
差し出される大きな手。
「はい。」
ミニョは笑顔でテギョンの手を取った。
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