イギリスでのミニョの宿泊先はカトリーヌの家。
韓国を出る時カトリーヌは「ホテルに泊まります」と言うミニョの言葉を「ダ~メ♪」とニッコリ笑ってキッパリ拒否し、自宅まで引っ張って来た。
鉄柵の門を開け、小さな花の咲く花壇を左右に見ながら石畳を歩き玄関へ。
ドアの向こうから現れた男性は優しく微笑んでいた。
「お帰り、キャサリン。」
「・・・ただいま。」
初めて見るカトリーヌの少し照れたような表情。
二人はハグをしキスを交わす。
「はじめまして、コ・ミニョです。」
「やあ、いらっしゃい、イアン・ジョーンズです・・・どうぞ。」
ペコリと頭を下げるミニョをカトリーヌの夫であるイアンは快く迎え入れた。
翌日から二日間カトリーヌにロンドンを案内してもらい、次の日はいよいよカトリーヌの歌を聴きにリサイタル会場へ。
練習室でしか見たことのなかったカトリーヌの歌う姿。
わくわくと胸を躍らせながら開演を待った。
暗い客席。
赤いドレスでライトの当たるステージ中央に立つカトリーヌの姿はいつも以上に優雅で美しい。
ホールに響き渡る伸びのある高音に鳥肌が立ち、透き通る歌声にミニョは息を呑んだ。
ピアノ伴奏者と笑顔を交わす姿。
普段見慣れているカトリーヌの微笑みが何倍にも素敵に見えた。
あっという間に過ぎていく夢のようなひと時。
他の客が席を立ちぞろぞろと会場を後にするなか、ミニョは幸せな夢の余韻を味わうように、なかなか座席から立ち上がろうとしなかった。
「どうだったかしら?」
「えーっと、何て言ったらいいのか・・・」
帰りの車の中、カトリーヌの質問にミニョは言葉を詰まらせた。
聴く前は、きっと素晴らしい歌で帰ったらすぐに今日のことをテギョンにメールで報告しようと思っていたのに何故だか今はそんな気がしなかった。
決して期待外れだったとか物足りないとかそういう感じではなく、言葉にできない・・・何も言葉にしたくない。
「すみません、上手く言えません。今はまだカトリーヌさんの歌が私の頭と心の中にとても強く残っていて・・・感想を言葉にしてしまいたくないというか、まだこのままここに留まっていたいというか・・・すみません、何て言ったらいいのか判らないんです。」
夢の中のような世界から現実へと戻って、このどう表現すればいいのか判らない思いを無理矢理言葉にしたくない・・・
俯きどう説明したらいいのかと考えていたミニョの身体がふわりと抱きしめられた。
「ありがとう、ミニョにそんな風に思ってもらえて嬉しいわ。感じる曲も感じ方も人それぞれよ。他の人と共感したいと思ったり一人静かに余韻に浸っていたいと思ったり。」
カトリーヌは抱きしめていた身体を離すとミニョの顔を見てニッコリと微笑んだ。
ミニョがイギリスに滞在中カトリーヌは数人の歌手と一緒にステージに立ったり、夜、野外ステージで歌ったりと忙しい日もあった。
仕事の打ち合わせで家を空けることもあり、そんな時はミニョは一人でガイドブック片手に街を歩いたり、家ではイアンが話し相手になってくれた。
「カトリーヌさんて本当に凄い人なんですね、改めてそう思いました。」
ステージの上に立ち大勢の客からの喝采を浴びている姿に、今まで自分の傍にいてくれたことが夢なんじゃないかと思えてくる。
「ほんと、僕も最近まで知らなかったよ。」
カトリーヌはアフリカにいる時も韓国にいる時も、時々イギリスへ帰って来て復帰の準備をしてはいたが本格的に活動を再開したのはつい最近のこと。
「僕は初めキャサリンが有名な歌手だって知らなかったんだ。歌をやめていた時に出会ったからね。でも歌ってるキャサリンは最高だ。」
イアンは笑いながら答えた。
「イアンさんがカトリーヌさんにもう一度歌うように説得されたんですか?」
「いいや、僕は何もしてない。歌をやめられず苦しみながら道を探しているキャサリンに何もしてあげられなかった。」
イアンは膝の上に肘をつき、手を組んでミニョを見た。
「僕はただのサラリーマンだし、歌の世界のことは何も判らない。いつ帰るのかも判らない旅行に出掛けると言い出した時も反対できなかった。結婚はしていたけど僕が傍にいても何の力にもなれないし、イギリスから出た方がキャサリンの為になると思ってね。」
大切な人が苦しんでいるのに何もしてあげられない・・・
イアンの表情からその時の辛さがミニョにも伝わってくるようだった。
「それでイアンさんはどうされたんですか?」
「結局僕は何も出来なかったよ。イギリスにいて毎日仕事に行って、食べて、寝て。料理と掃除、庭の手入れは上達したけどね。」
イアンは自嘲気味に小さく笑うと細身の眼鏡を指で押し上げ紅茶を一口飲んだ。
「情けない男だろ?僕はじっと待ってることしかできなかった・・・ミニョは凄いよ、キャサリンをもう一度歌わせることができたんだから。」
イアンの寂しそうな目にミニョの心が痛んだ。
「情けないなんて・・・そんなことありません。私はカトリーヌさんに歌を教わっただけです。イアンさんがイギリスでカトリーヌさんの帰りを待っていたからカトリーヌさんも安心して家を空けていられたし、歌えるようになったんだと思います。私はただのきっかけです。イアンさんの存在があるからこそだと思います。」
ミニョはアフリカにいる時も韓国にいる時もイギリスへ帰る時のカトリーヌの嬉しそうな表情を思い出し語尾を強めた。
「フッ・・・そうかな・・・」
「そうよ!」
いつの間に帰って来たのか、ソファーに座るイアンの後ろに立つカトリーヌがその大きな身体に腕を回した。
「ミニョの言う通りよ、私はイアンが待っていてくれたから帰って来て歌いたいと思ったの。」
怒った様なカトリーヌの声。
イアンが振り向くとカトリーヌは広い背中に顔を埋めていた。
ミニョを見て照れくさそうに笑うイアンを見て、ミニョはそっとソファーから立ち上がり静かにリビングを後にする。
ゲストルームに入りドアを閉めると小さなため息をついた。
「オッパに会いたくなっちゃった・・・」
二人を見ていて心が温かくなったと同時に、今自分の傍にテギョンがいないことに寂しさを感じる。
時計を見て指折り数え、韓国はまだ夜明け前だと判ると荷物の中からごそごそと携帯音楽プレーヤーを取り出した。
スイッチを入れるとヘッドフォンからはテギョンの歌声が。
今回イギリスへ行くミニョの為に入れた曲。
ミニョはベッドの端に腰掛け目を瞑り聴こえてくるテギョンの声にテギョンの姿を思い浮かべた。
顔に笑みが浮かぶ。
『・・・サランヘ』
曲の終わりにはいつかの約束の言葉が入っていた。
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