最近キム記者の姿を時々見かける。事務所の外で、テレビ局のロビーで。
近くに来て何か話しかける訳でもなく少し距離を置いた場所からじっとA.N.JELLの様子を窺っている。
事務所のロビーで意味深な言葉をかけられてからずっと気にはなっていた。
忙しさにかまけてそのことを忘れていると、不意に現れてその存在を誇示する。
『言葉もなく』 ・・・まさか今頃になってキム記者がこの歌のことを持ち出してくるとは思わなかった。
デビューしたての頃とは状況が違う。半年前よりもミナムの人気は更に増している。この状態で違う人物が歌っていたことが発覚すれば致命傷になりかねない。歌だけでは済まないだろう。デビュー当時の映像を持ち出し、ミニョとミナムが比較されるであろうことは容易に想像できる。入れ代わりの発覚を防ぐには歌の段階で、はっきりと否定できるものが欲しい。その為にはミニョの今の歌が必要だ。
「またキム記者がいるよ。」
ジェルミが心配そうに呟く。
「こうなると、今ミニョが韓国にいなくて正解だったな。ミニョがいれば絶対に付き纏っていただろう。」
シヌも真剣な表情だ。
テギョンは二人にもミニョがアフリカで何をしているのかを話した。カトリーヌの指導の下、クラシックをやっていることを。ただ彼女がキャサリン・ロットだということは伏せてある。その名前を知っているかどうかは別にして、彼女の意向もありその名前を知る人物はできるだけ少ない方がいいだろうというテギョンの判断で。だからミナムにも教えていない。
この間の手紙で、歌は大丈夫だから心配はいらないと書いてあった。カトリーヌのOKが出たなら問題無いのだろう。あとはその歌をどうやって使っていくのかが問題だ。
テギョンは無言のままこちらを窺うキム記者を一瞥すると、無表情のまま足を進めた。
休憩になるとよく一緒に話をすることが多くなったミニョ、ソユン、シヒョン、ハン・テギョンの四人。
ミニョは自分はカフェでアルバイトをしていることを話していた。
「テギョンさんも一度いらして下さい。マスターの淹れるコーヒーはおいしいですよ。」
― やっぱり何度呼んでも不思議な感じ。オッパではないのにテギョンさんて呼ぶなんて。でも人前で名前を呼べるだけでも何だか嬉しい・・・
ミニョ本人は気づいていないのだが、テギョンという名前を呼ぶ時いつも少し顔が赤くなる。ソユンとシヒョンは気づいていた。そして思う、ミニョが彼に特別な感情を抱いているのではないかと。あるいは、特別とまではいかなくても気になる存在なのではないかと。
「はい、ぜひ。僕、コーヒー大好きなんです。」
ハン・テギョンはミニョの様子に気づいているのか判らないが、ニコニコと笑って答える。
ミニョとハン・テギョンの二人を見て、ソユンとシヒョンは顔を見合わせ何やらこそこそと話していた。
韓国から戻ったミニョはシスターメアリーから他の施設でも歌ってみないかと勧められていた。ミニョのことを知り、他のいくつかの施設から歌って欲しいという誘いがきていた。ミニョは自分の歌が喜んでもらえるならと出来る限りその誘いを受けていた。
ある日の夕方。
雨は降っていなくても、どんよりと曇った日が多かった空が明るくなった。
天から射す光は辺りを赤く染めている。
滴のついた草木、濡れた大きな岩、水の溜まった大地、湿った空気。
全てが元々あった色に、赤い絵の具を上から塗ったような景色に変わっていく。
ミニョは施設を出るとそのまま家には帰らず、ある場所を目指し歩き続けた。
雨の上がった、ねっとりと身体に纏わりつくような大気を楽しむように歩いて行く。
大きな水たまりを避けながらも、舗装されていない道は泥を跳ね上げジーンズの裾を汚していく。水の跳ね上がるぴちゃっという音さえ、今のミニョには楽しい音色に聞こえた。
ひたすら歩き続け、小高い丘の上を目指す。
周りは見渡す限り草原が続いている。人気の全くない場所。丘のふもとには大きな木が数本あるだけ。この地でミニョはカトリーヌと歌の練習をしていた。
雨が降り続き暫く遠のいていた足が、雨の上がった夕焼けを見た途端ミニョをここへ向かわせた。
今日カトリーヌがアフリカへ着くと連絡があった。そのせいもあったかもしれない。
「ここで歌いたかった。」
ミニョは丘の上に立つと胸元の星を握りしめそっと目を瞑る。
韓国にいるテギョンを想い、もうすぐ会えるカトリーヌを想うとゆっくりと瞼を開き遠くを見つめながら歌い始めた。
ミニョが再びアフリカへ来てから一度も歌っていなかったカッチーニの 『アヴェ・マリア』 。ずっとシューベルトの練習をしていたが、ミニョはこの歌が好きだった。
この歌を歌うと何故かテギョンの顔を思い出す。二度目にテギョンの前で歌った時の彼の顔を。
口元に拳をあて、赤くした顔は眉尻が少し下がり困っているようにも見えた。歌い終わり俯くテギョンの顔を覗き込むと赤い顔のままキョロキョロと目を泳がせる。
その一連の仕種が・・・何だか可愛く思えた。
ミニョの歌声は夕焼けの空に優しく響き渡り、遠くへ遠くへと、どこまでも広がっていく・・・
「あー、やっぱりずっと歌ってなかったからダメだわ。これじゃあまたオッパに人前で歌っちゃダメだって言われちゃうわね・・・」
「・・・ミニョ!」
歌い終わり空を仰いでいたミニョの耳に飛び込んでくる聞き覚えのある声。
「カトリーヌさん!」
大きく手を振りながら近づいてくるカトリーヌにミニョも駆け寄る。
再会を喜んでいるとカトリーヌが近くにある大きな木を指差しミニョに聞いた。
「彼、知ってる人?ずっとミニョの歌聴いてたみたいだけど。」
「えっ?」
気の陰から現れたのは少し頬を赤くし、じっとミニョを見つめている・・・ハン・テギョンだった。
『俺の前でだけなら歌うことを許可する。』
ミニョの脳裏にテギョンの言葉が浮かぶ。
― オッパ・・・私は約束を破ってしまったんでしょうか・・・それとも、事故を起こしてしまったんでしょうか?
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