2022の歴史論 戦のない世を作るために敵を皆殺しにして良いものか。
はい。
人々もこの2022という人物が、並みの歴史観を持っていないことを感じていただいていると思います。
わしも不思議なのですが、普通の歴史マニアや武将オタクと自分は何か違いますよね。
当時の戦国時代にあたかもいたかのように、歴史を語るのがこの2022なのです。
自分でも不思議なのです。古文書が読めるわけでもないのに、古文書が読める歴史学者よりも過去を把握しています。
自分が当時にいた感覚で物を考えているのですね。その結果、通常の歴史観とは全然違う
歴史認識が出来上がってきます。
さて、これはいつか言いたかったことです。
竹中半兵衛とか黒田官兵衛とかが軍師とか戦国最強の頭脳とか言われていますが、わしに言わせればただの臆病者です。
戦国最強の軍師と言われる竹中半兵衛や黒田官兵衛を指してただの臆病者と喝破できる人がいますか。
絶対に自分のほうには損害が出ないように戦って相手を完全に抹殺することってどうなのでしょう。
戦いというものは自分が相手を殺めるためには自分も殺められることをひきうけてこそ戦いなのではないのでしょうか。
そこに平等性があるのです。
こちらは全く傷を負わないのに、一方的に相手方を殺傷できることが強いことなのでしょうか。
ただの卑怯者ではないでしょうか。
わしはこれを書きながら猛烈に腹が立ってくるのです。
やっぱりわしには平氏の武将の血が流れています。
竹中半兵衛が天才とかどうとかいう人間がいますが、全く違います。
完全な臆病者です。武士が最も忌むべき卑怯者です。
このことを忘れてはいけません。
戦国の世の中を終わらせるために、敵方を罪なき人も含めて皆殺しにしていくものは、そのもの自体が最悪の
戦国の不幸を生み出すものなのではないでしょうか。平和のためだといって彼らが殺していった人間は帰ってきません。奴らにその人たちを殺す資格などなかったのです。彼らはルール違反の戦争を繰り返した挙句、手向かうものがいなくなった時点で天下統一となったのです。結果、戦国が終わって天下泰平が来たからといってナチスの虐殺者とやっていることは変わりません。このことを忘れてはいけないと自分は思うのです。
応仁の乱で都が荒廃したとか、10年戦争をしていたとかなんとか言っても、敵も味方も全く死んでいません。
山名宗全・細川勝元・畠山義就・畠山政就
誰も死んでいないんですよね。
戦争の間に寿命で病気で死んでいくだけです。
要するに戦争ごっこをやってるだけで、相手を全く殲滅しないので戦争が10年続いていたのです。
終わりなき戦争をしている方が人が全然死なないのです。
その代わり社会は混乱し、いつまでたっても秩序の元の生産活動が営まれませんでした。
この状態に苛立ちを抱き、何が何でも統一すると考えたのが織田家なのでした。
この信長の統一事業の中での竹中半兵衛という人間は許しがたい臆病者です。
いま日本をめちゃくちゃにしたもう一人の竹中という人間がいますが、どうせあの男は竹中の子孫です。
名字というのは意外とすべてを表すのです。
マニー敗戦を書いて日米植民関係を指摘した吉川元忠氏は直系ではないのですが、確かに吉川元春の子孫でした。
わしは信長家臣団の戦国大名の子孫二人と偶然にも友達でした。
二人とも歴史好きならだれでも知っているレベルの織田家臣団の二人です。
名字というのは変わらないので、竹中は確かめていないし、本人も自慢していませんがどう考えてもあの考え方は竹中半兵衛一族の発想法です。
竹中半兵衛の子供たちは秀吉から領地を取り上げられて、大名として残りませんでしたが、竹中の従兄弟の一族は
九州に領地をもらって大名になり、松倉重政と一緒に圧政を課して、島原の乱を直接引き起こしました。
島原の乱を直接引き起こした人間の中にその名前を見たときに自分は驚きましたが、どうせ竹中半兵衛の親族だろうと思ったらその通りしっかり血のつながった岐阜に住んでいた竹中でした。
遠い先祖の時点から支配を受ける側の立場の民衆になんの感情も持たないサイコパスなのです。
こういう人間は秀吉のような人間にコバンザメのようにつかないと、奸智があっても誰もついてこないので武将としても何もできません。斎藤竜興から一時稲葉山城を取ったことがありましたが維持できず逃亡しました。
謀略で城を奪っても人望がないので人が付いてこないのですね。現代の竹中と全く同じでしょう。昔から同じなのです。
竹中というのは先祖の昔から同じことをやっているのです。
このものたちが、平和の世を作るためと称して殺戮を繰り返しました。
平和のためといって人を殺す人は本当に正義なのでしょうか。
人々も今一度考えてほしいことです。
戦国時代といっても元々は死者はほとんど出ないメンツの張り合いの模擬戦を繰り返していたのです。
それをこの臆病者たちが現れたことにより、戦は徹底した殺戮を伴うものになってしまいました。
近くは本郷教授のような人も、兵隊は大半が農民なので労働者が死んでしまったら働き手がいなくなって困るので
なるべく死者が出ないような戦い方をしていたと普通に言っています。
それをやめてしまったのがわしの友達にもいた織田軍団なのです。
その中でも秀吉配下についた竹中と黒田という人間は並外れた臆病者だったのであらゆる方法で攻め手の自分たちが
傷つかない方法で敵を抹殺しようと頭をひねりました。
天才とか頭が切れるとかそういうことではなく、時代のモラルを逸脱して卑怯な作戦を使うので、ルール違反で
相手を封じ込めていただけなのです。秀吉という正式の武士ではない人間の元でそれをやっていたという事も
それが成功していた大きな要因になるでしょう。
竹中・黒田は天才でも軍師でも何でもありません。
武士にあるまじき卑怯者・臆病者なのです。
世間一般の評価とは全く違いますが断言します。
っすごい熱いですね。歴史や戦国時代のことを言うのにここまで言う人はいないと思います。
要するにわしは戦国時代を知るのではなく、あの時代に生きていて半兵衛や官兵衛というああいう卑怯者の輩を
ぶち殺してやりたいのです。血のつながりはおそらく全くないのですが、毛利や吉川の侍ならそれができたのです。
毛利家の侍はとにかく強いですよ。毛利とか島津は鎌倉時代の感覚で動いているので。
戦国時代の侍ではないのですね。感覚が完全に鎌倉・室町の感覚で動いていたので織田軍団、その後の関が原での
徳川との覇権争いに完全に出し抜かれましたね。勝負になってないですよ。
政治とか政権の感覚が毛利の武将には誰一人ないのです。小早川隆景も同じですよ。
勢力広げ争いの感覚以上のものが一切働かないバカ侍なのです。
関ケ原の時毛利輝元は大阪城で何もしていなかったように思いがちですが、毛利は一族を関ケ原に派遣するとともになんと四国や淡路島に攻め込んでいたのです。大阪から四国や淡路島ってバカですよね。本当にどうしようもない。戦略性のかけらもない。領地を広げたい。勢力圏を地伝いになるべく広げたい。それしか頭がないのです。
この時毛利家が一族でもらっていた領地はすごいですからね。毛利吉川小早川以外のもう一人の毛利も九州に城をもらってそれが30万石ぐらいあったのです。→これは毛利元就(71才)の時の末子、毛利秀包のことですね。
30万石はうろ覚えで、筑後久留米城13万5000石のことでした。 負けた後に押し込められた領地と同じくらい(ではなく半分ぐらいでした)の領地がかけらのように九州にもあったのです。それを何も考えないで、もっと勢力を広げたいとよくを出すのですべてなくしました。
ばかの極みです。
その代わり戦ったらあほみたいに強かった。
昔の侍なので。
平氏の末の珍名であるわしの家はどこかの段階で瀬戸内に行きついているのでやっぱりひょっとしたらというかほぼ確実に毛利家の中にいたのかもしれません。
