満を持して発表。最近歴史シリーズが増えています。

 

歴史について書きたいことがたくさんあったんですね。

 

NHKの歴史探偵があった日に書いてから一週間置いてなおして完成させました。

 

今日は米沢藩の上杉鷹山の話を番組でやっていて感動しましたが、この上杉家の不思議なところは

 

家督相続で全くもめないところです。これは素晴らしいことです。

自分に子供がいても、養子を優先し、上杉鷹山も家督は自分の子供ではなく、自分を養子に取ってくれた前藩主

の実子を後継者にして無事継がせています。

 

上杉鷹山が養子になって嫡男になった後で、殿様の本物の子供が生まれたのにそのまま家を継いだのですね。

秋月氏という九州の全く関係ない家の子供だったのにもかかわらず。

 

鷹山の跡を継いだ藩主の次の嫡男に鷹山の子供に設定されました。殿様の実子と養子が順番交互に跡継ぎとして家を継ぐという事です。

ただそのお世継ぎの若君は流行り病でなくなってしまい、上杉鷹山の実子は跡取りとして残りませんでした。

鷹山の跡取りは前の殿様の次男であったため、男子がなかったため兄の子を養子に取りました。

鷹山はこの跡取りの若君を自分で寝起きを共にして育てました。

この鷹山が薫陶した少年がのち無事に殿様になって、次の危機、天保の飢饉が来た時に、教わっていた通りの対策をすべてやって領内から一人の餓死者も出さなかったことに成功しました。これで上杉鷹山の改革は達成された言えると思マス。

 

養子を取った後で子供が生まれるとそちらを継がせようとしてもめるのが戦国時代や室町時代です。上杉家は江戸時代の中でもかなりクレバーで、養子にも実子にも優しい環境があります。

 

上杉家の嫡流は、三代目で完全に絶えていて、ここで上杉家は断絶する可能性がありました。そこで緊急で4代目藩主に養子に取られたのがあの吉良上野介の子供でした。元服したのち上杉綱憲と名乗りました。

 

上杉鷹山の先祖というのも妙なのですが、上杉鷹山はこの直系の途絶えた上杉家を残すために吉良家から養子に入った殿様の子孫なのです。上杉景勝と女系を通して遠くつながっています。ふとおもったのが、上杉謙信の跡取りもお謙信のお姉さんの子供でした。

上杉家は伝統的に姉貴を大切にするのか、家族や兄弟仲が良いですね。

上杉鷹山を推薦したのは他家に嫁いだ当主の叔母で、秋月家の鷹山のお祖母さんです。

母親ならともかく一国の政治によその家のおばなんてほとんど関係ないですよね。

女性の発言権が強いと思いませんか。

まあ正室と世継ぎはみんな江戸藩邸で暮らしてるから大名一家の親戚は距離が近いんですね。

 

 

 

江戸時代のルールでは、跡継ぎを立てる前に藩主が死んだらその藩はおしまい。

 

殿様と世継ぎがセットでいなければいけないという事ですね。確かにこれはもっともなことなのですが、若い殿様が就任したばかりでこの先子供が生まれるかもしれないのに、仮の跡継ぎを決めておくこともできませんよね。立てた後継者は幕府に届け出て正式に決定されるので勝手に変えることができず、そのあともめるからです。だからこれはかなりハードな要求だったのです。そうやって藩主が跡継ぎを立てる前に20代や30代で死んでしまった場合、武家諸法度で即アウトで取り潰されていました。これが末期養子という形でルールを破って許された最初の例が、徳川家綱の時代のこの上杉家の場合でした。

 

上杉家の正室に会津の幕閣保科正之(徳川秀忠三男)の娘が嫁ついでいました。この保科の口添えというか強引な優遇によって上杉家は守られることになりました。吉良上野介は上杉家三代藩主の妹を嫁にもらっていました。

吉良は20代の若殿で子供も生まれたばかりの赤ん坊でした。

城もないのに高家の家柄というだけでものすごい縁組です。確かに旗本とはいえ吉良上野介は自分も大老酒井家の母を持っていて家柄は確かに格段にいいことはいいです。そのため吉良の一人息子が上杉家の孫として(三代藩主の甥っ子)としていきなり15万石の大名に飛び上がりました。二歳で大人の名前をもらって正式に上杉家の当主となり、将軍には5歳でお目見えしています。そしてのちに正式に元服して四代当主の上杉綱憲となりました。

 

吉良上野介は子供を養子に出したときは結婚してすぐの20代でした。

浅野内匠頭のまえに儀式のいびり爺として登場するのはこのあと約40年後です。

上杉家は、当主の実家の家の吉良家に対しこの後やはり40年間にわたって両家一体となった財政支援をしていくことになるのです。吉良家から来た赤ん坊のおかげで取り潰しを免れたのだから吉良の立場はかなり強いです。

殿様の実父なので無下にできないのです。

そうやって家綱時代を過ぎ、あの綱吉時代の老人の吉良の時代に至るのです。

その後上杉綱憲の長男は次の跡取りに、次男は実家の父親(吉良上野介)の跡取りとして元の吉良家に入りました。

 

 

吉良家の跡取りになった次男は、赤穂浪士の討ち入りがありました。これにまともに遭遇して、祖父の上野介はその日に討ち取られて首を取られ、祖父を守ろうとして奮戦し、頭を切られて気絶して一命をとりとめました。

取り囲まれて斬られたのでしょう、顔側と頭の後ろを切られました。頭の後ろにも傷があったためこれを敵に後ろを見せて逃げたととがめられました。

幕府は生き残った吉良家の若殿を士道不行き届きとして、お家断絶として、吉良家はなくなりました。祖父を守ろうとした10代の若殿も一生軟禁に処しました。この若者は許されることなく数年間軟禁された挙句亡くなってしまいました。

 

上杉の殿様は復讐のために動かないのか、という事も世間の関心の的になりましたが、もはや別の家だとそこは一切かかわりあいませんでした。これにより赤穂浪士の討ち入りは決着がつきましたが、綱憲は家督を譲って隠居をし、米沢へ帰るというところで病死してしまいました。赤穂の討ち入りがあってから2年もたたないうちに亡くなってしまったので、42歳でした。これは父親を守れなかった綱憲の心労があったとしか考えられません。

 

 

 

【2022の歴史新独自説】

この赤穂浪士の討ち入りというもの、もとはと言えば、小さな旗本の家となっていた吉良家のこどもが分不相応に上杉家の跡取りに突然成り上がるということがもとになっていたと自分は考えているのです。

 

 

吉良上野介は名君だった、本当はいい人だったなどと地元では謎の信仰が行われているそうですが、そんなわけではなく、吉良上野介は浅野長矩公以外にも刃傷沙汰寸前のハレーションを起こしていて、そのような話が別にもあります。饗応係を同じように務めた殿様があのじじいからうけた屈辱だけは絶対に許せない、申し訳ないがあいつをぶち殺してから腹を切って死ぬので勘弁してくれと家老に打ち明けて、家老はそこまでいうなら仕方ないと、殿様の復讐を止めもせず引き下がりました。そこで殿様は何としてでも吉良を切るつもりでいたのですが、先日と打って変わって吉良の様子が変わり、万事好待遇で怒るすきもなく無事に勤めが終わってしまいました。この家では幸いに事前に吉良は許せない、必ず斬ると打ち明けていたために、家老が手をまわして貢物を吉良家に送って吉良の機嫌を取って解決したのです。

 

格上の城持ち大名に対して家康が設定した高家という格式をかさに着て、作法しきたりの指導役という都合の良い立場を使ってありったけの嫌がらせをしていたということはまちがいないです。これというのもすべては自分は小さな旧家の旗本なのに、息子は名門上杉謙信の名跡を継ぐ本物の大名になってしまったのです。ただでさえ城持ち大名に対して複雑な思いを抱いているのに実の息子が上杉家の殿様になってしまったのです。息子はあの上杉家の当主だぞという事をかさに着ることができるようになってしまったのです。もう約40年間にわたってあの上杉の実父としてほとんど上杉家の人間のような気分で生きてきているわけです。にもかかわらず自分は小さな旗本。

饗応役を務める大名家から指導料として法外な賄賂を受け取って、それを持ってこない家は気の利かない田舎侍だとねちねちといびりにいびって留飲を下げていたのです。吉良上野介の子供が突然上杉家の跡取りに取り立てられるという事がなければ、吉良もあのような歪んだ対応と、度を越したわいろ要求といびりは行わず、刃傷事件、赤穂浪士の討ち入りもおこらなかったと自分は考えるのです。

珍説どうでしょう。

 

 

この説は司馬遼太郎も誰も一人として唱えていません。

吉良家から上杉家をついだことは、ほとんど取りざたされませんが無理を重ねた

奇策なのです。この奇策が起こした波乱の一つだと自分は思っています。

 

もう一つの波乱は末期養子を許す代わりに領地を半分に削るという謎の半減処分です。

上杉家の財政が破綻して領内が成り立たなくなるという大きな原因となりました。

 

関ケ原後の転封ならともかく、平時の江戸時代に突然領地を半分に減らされても、そう家臣の首は切れません。

またこの措置を決めた保科正之の意向もあったといいます。

 

末期養子を認める代わりの領地半減のために財政が成り立たなくなって疲弊した家は枚挙にいとまがありません。

確かに、末期養子の禁といって、それを理由に一律取り潰していた初期の幕府の方針からしたらまだ、ましです。

これは保科先導の4代家綱時代の幕府の融和的政策のうちの一つとして有名な措置です。

一律取り潰しよりかはたしかにましになっています。

だが、じぶんたちで上杉家を残すために末期養子を認めることにしたのだから領地一律半減などと言うことはしないで認めてやればいいのです。何かを認めてやる代わりにその代わり何かを差し出せという決め事が江戸時代というのはとにかくいやらしい。取り潰しは免れるのだから半分になっても我慢しろ。残してもらえるだけでありがたく思えというわけです。ありがたくは思うにしても収めている領地を突然半減にするというのは経済的、財政的にまったく根拠がありません。ものすごく重たい罰則に変わりありません。無茶苦茶です。これがために米沢藩は赤字に大転落し、領民に苛斂誅求を当たり前にしていく藩になるのです。

上杉鷹山が藩主になる前には、もう無理だから領地を幕府に返すという事まで言って、縁戚の尾張徳川藩の殿様からたしなめられるというところまで追いつめられています。

 

上杉家を残すための強引な養子から、藩の恒常的財政難、実家の吉良上野の介の度を越した大名いびりと賄賂の要求、刃傷沙汰からの討ち入り、吉良家の取り潰しと跡取りに入った若殿の幽閉、病死、当主上杉綱憲の失意の急逝というとてつもない負の代償を負ったのです。

 

上杉鷹山の血統的関係というのもこの場合に近く、お祖母さんが上杉綱憲の娘で、九州の秋月家という米沢には縁もゆかりもない家の次男でした。そのお祖母さんが自分の甥っ子の上杉の殿様に、賢い子供がいるので養子にとってはどうかと幼少の鷹山を薦めで秋月家から上杉家を継ぐことに決まりました。鷹山のつながる上杉家は末期養子によってぎりぎり継がせた上杉綱憲からの家系で、遠くたどって上杉綱憲のひ孫にあたりました。鷹山は吉良上野介の血筋なのです。

 

旗本の家から名門大名家を継がせるという強引な無理を通すために、時代の人々は大きな代償を払いました。

鷹山という人が現れてこれを最後に解決したのはほとんど偶然、奇跡のようなものです。

 

 

江戸時代の上杉家の養子縁組の歴史についてあれこれ言って、今さら何が関係あるのかという事ですね。

 

これが大事です。

 

自分が何を考えているのかと言えば、上杉鷹山という一人の開明的な殿様が生まれるまでに大変なことを経なければいけなかった。そして、赤穂浪士の討ち入りに関して、吉良は本当は名君だったとか、実際にどちらが悪かったのかわからないとかそんなことを言っても始まらない。わかっていることから妥当な線でこうだったのだと把握していいということです。

 

まず、自分の祖父の跡取りになった上杉家次男の若殿がたどった運命があまりにも過酷すぎる。

可哀想すぎます。祖父を守るために養子に入ったばかりの吉良家のためにできることはやっています。

吉良家を継い側は本当に重たい運命がありました。

 

吉良に屈辱を受けて、刃傷沙汰に及べば、自分は死罪、家は厳罰により取り潰しになるのはわかっていても殿様が自分で吉良を討とうとした人がほかにももう一件あったことが伝わっています。だから吉良のいびりは言い伝えの通りと考えるほうが普通です。意地汚い爺が儀式の決まりを自分しか知らないことを利用して大名をいびっていたのです。それは自分が名門といわれる家柄にありながら城を持たない旗本という事に加えて、戦国時代の名将、上杉家の当主に自分の実の子供がなったという宝くじ大当たりがあってのことだと考えられるのではないでしょうか。わしはあの上杉の父だぞどうだ田舎大名どもというわけです。ここまで考えると歴史がつながるのです。

 

これを昔のことはわからない、わからないといって、吉良も実はいい人だったとか、余計な方向に話を進めると歴史を見ることができなくなってしまいます。わかることはわかっている、という態度を取ることが大事です。

そして理由のないことは起こらないという事です。

 

赤穂浪士に出てくる吉良上野介はもうその時点で60代のいびり爺です。

ですが彼は旗本の家に生まれたのに、結婚して生まれてすぐの赤ん坊が上杉家の殿様になってしまったのです。

それ以来名門の上杉家の父として数十年生きてきたのです。かなりいびつな事態です。

このことが人間に影響を与えないという事はないのです。

吉良の子どもが上杉家の殿様になったから、あの松廊下の刃傷沙汰と赤穂浪士の事件が起きたんだという事は江戸時代の本を読んだってどこにも書かれていませんし、これを論文を書いて証明のしようもありません。

 

浅野内匠頭の側は血のつながったかなり近い親戚の大名で本人以外に2件も同じ刀傷沙汰、斬りかかって相手を殺してその場で切り殺される事件。2人も同じことをした人物がいます。どちらも家は断絶しています。浅野は三人目なのです。

だから浅野の血の方にも原因はあったのだろうという事は当時も今も言われています。

でも時歴を通してみて考えていくと、吉良の側でも、養子縁組と赤穂事件のこの二つはつながっていると考えられるのです。そこまで考えて歴史です。

 

そして、上杉鷹山のような開明君主が現れて何十年もかかってからようやく財政が修復され、飢饉の対策がうまくいくような実績が成功する。これは江戸幕府の家は残す代わりに石高を半分にする。経済や社会運営の実情を全く考えないで幕府の御威光の元不条理な罰則を与えていく。このでたらめな罰則がもとで同じ措置をなされた藩や地域とその領民たちが日本全国で苦しみ続けることになっていたという事です。要するに悪いのは幕府だという事です。

 

上杉家は、たまたま運よく上杉鷹山という人が現れ、藩と領民を救い幕末に至りました。しかしほとんどの藩の場合、このような財政再建と治世の安定は成功せずに、年貢と財政難という形で領民にすべての負担がのしかかる状況が続いたのです。上杉鷹山に手づから育てられて天保の飢饉のときに以前のような餓死者を出さなかった鷹山の孫の代の殿様。その子供はもうちょんまげ姿の写真が残っています。鷹山の孫の子供(ひ孫)の時代はもう幕末なのです。江戸の中期に起きた、上杉家の末期養子、ここから始まった米沢藩の疲弊を解決するのに5代から7代の期間、150年以上の時間がかかったという事です。上杉鷹山の出現と、米沢藩の財政再建と改革によって米沢の人々が幸せな生活を得るまでに壮大な歴史の因縁が存在していたと思います。

 

2月13日㈭記

 

 

        

山形県と米沢の位置。ほとんど福島に食い込んだ内陸だったんですね。   黄色いエリアが置玉郡。米沢藩。

孫の殿様が回復させた時の人口が10万人だったそうです。

山形県のほんの一部ですね。