「ご安心ください。もう山は越えています。温かくしてあげてほしいのですが、お風呂に入って体温が上がったり、長く陽にあたって汗をかいたりすると、痒がるかもしれません。その点だけは気をつけてください。赤みは一週間ほどで引いてきます」


 私の言葉に彼女は大きく頷き、私は彼女の巨大な山々に、不躾な目を送っていた。


 男の視線が無意識であれ訴えであれ、女は男のどんな些細な視線をも見逃さない。全部知っている。以前にある女性からそう聞いた。女は見られたことで意識して、自分を磨こうとする。男のスケベな眼差しが、女の美容に一役買っているのなら、ぜひこちらの意図も汲んでいただきたい。


 「待合室のこどもたちには伝染りませんか?」


 「ご心配なく。ぽつぽつがはっきりと現れる頃には、すでに感染の時期は過ぎていますから」


 気配りのあるところがいい。


 「ありがとうございます」


 彼女が両手を合わせて深々と頭を下げたので、さらに胸の谷間が深まった。彼女は小狸の息子を抱き上げた。


 「よかったねぇ」


 彼女はそう言って、わが息子の頭にチュッとキスをした。


 その時私の心は決まった。何が決まったというのだろう?

 寝かされるやいなや、こどもの顔がくしゃくしゃになった。ひくひくとしゃくり上げ、「ほぎゃあ」まではあと一歩だ。こうなると診察がしづらい。


 「横にすると泣くんです。座らせていればご機嫌なんですが」


 母の助言に従い、私はふにゃふにゃの乳児を起こした。座らされるやいなや、ちびすけはこてんと横にひっくり返った。またもや「ふえぇっ」が始まった。私は再び座らせた。また倒れた。私はもう一度起こした。今度は真正面から倒れ込み、もろに前頭葉を打ちつけた。


 「こてん」と「ふえぇっ」を数回繰り返し、私はいささか閉口した。そこまでする必要もないのだが、ひとえにごひいき様へのサービスだ。


 「これじゃまるでパンダだわ」


 看護師がクスッと笑った。そう言う母はご機嫌だ。確かにでんぐり返しでもしそうだった。せめて起き上がり小法師なら、自力で起き上がれるものを。


 「枕をいくつか持ってきて」



 私は意地にもなっていた。枕が到着し、なんとかこどもを四方八方から支えた。こどもはぶすっと俯いていた。


 「こうなるともはや狸の置き物ね」


 看護師がプッと吹き出した。腕組みした手をあごに当てた母は、まことしやかに頷いていた。よりによってわが子を置き物呼ばわりするとは。いや、狸呼ばわりするとは。


 あるいはクマのぬいぐるみか。いやこれは紛れもなく、座布団の上に鎮座ましまする、ぶすくれ狸の縁起物だ。


 ちびすけは相変わらずふてくされている。込み上げる笑いで手が進まず、私はひとつ咳払いをした。


 「たんたん狸みたい。ふらふらしちゃって」


 風もないのにな、と私は思った。彼女が下世話な文句を口にする分には、屈託がなかった。それに「ふらふら」じゃない。「ぶーらぶら」だ。



 裸ん坊にされた赤ん坊は、母に似て色白だった。

 「それではまぁ、そこの診察台に乗せてあげてください」


 こどもを抱いて椅子から立ち上がった女性は、予想以上に背が高かった。靴のかかとの高さを差し引いても、小さくはない。


 乳児の母がハイヒールを履くのは危険との見方もあるが、ひっきりなしにだっこをしているわけではなく、ベビーカーに乗せることだってあるだろう。現に診察室の入口には、楽しげなおもちゃのいっぱいくっついた乳児専用車が停めてあった。母なる仕事に就く女性が、必ずしもガマガエルのひしゃげたようなドタ靴を、バーゲンで買い求めなければならない規則はない。


 主婦がマニキュアをつけるのはどうかとの考えにも賛同できない。それぞれの価値観であるし、個々の美意識の問題だ。実際のところ彼女の爪は、きれいな桜色に彩られていた。


 頭の堅い男たちはともかく、世の主婦連が他の女性を非難する場合、自分たちの身の上には叶わぬ夢であることが多い。浮気にしろ、お洒落にしろ、ぺったんこの腹にしろ。したくてもできないやっかみの裏返しなのだ。何をモットーにしようと勝手だが、人のやることにまで口を出すな。柔軟性と発展性のない頭が、老醜への第一歩だ。


 無洗米を邪道と決めつけ、洗濯機は二層式に限ると信じている女がいる。Tシャツにアイロンをかけたり、氷だらけのコーラをストローで飲む方が、よっぽどナンセンスで気が利かない。


 無洗米は確かにまずいが、改良されてうまくなるかもしれないし、全自動洗濯機は生地を傷めず、水の垂れ流しがなくて経済的だ。どちらも何より便利である。懐古主義的独りよがりな考え方に捉われていれば、男も女も取り残される。よがるなら二人でよがれ。


 女性がこどもと家庭の犠牲になるのを、私は美徳とは思っていない。あれこれ手を出す女性の方が、はるかにビビッドで魅力的だ。



 付き添いの看護師に比べれば、彼女はよほど大きかった。単独で見れば子供っぽいが、こうして比較すると違う面が見えた。


 その目配りや、こどもを大切そうに扱う手つき、メリハリのある体つき、背筋を伸ばした立ち姿そのものに女の自信がみなぎり、彼女がことさらアダルトな女性であるのを垣間見るにつけ、私の興味は高まった。



 母はこどもを診察台に寝かせた。隣りに立った私の鼻を、みずみずしいコロンの香りがくすぐった。コロンや香水も然りだ。要するに私は、ますますその女性が気に入っているのだった。