呼び出し音が鳴るまでもなく、彼女は電話に出た。


 「はい」


 名前は告げなかったが、聞き覚えのある声だった。私は病院名と名を名乗った。


 通常掛かりつけの医者から電話がかかってくれば、何事かと慌てるところだが、前置きがあるため彼女は落ち着いていた。


 「まぁ先生、その節は」


 それきり沈黙した。受話器の向こうから、ぶぅぶぅ言う声が聞こえる。赤ん坊を抱いているらしい。スリッパのパタパタする音が響き、部屋の中を移動しているのがわかった。


 私は彼女のホームウェア姿に思いを馳せた。エプロン姿の方がいい。その下が裸ならもっといい。素っ裸にエプロン姿の女は、男の永遠の憧れだ。


 「もしもし、先生」


 耳に届く声が若干大きくなったのは、こどもをどこかへ降ろし、受話器を持ち直したからだ。会話に身を入れる気になってくれたのだろうか。


 「よかったら電話をくださいと伝えたのに」


 顔が見えない相手に向かって、私は口をとがらせた。


 「よくなかったのでしませんでした」


 なるほど。ごもっともな理由だ。冴子というだけあって、なかなか冴えたことを言う。


 「それでなんのご用ですか?」


 とは言わずに黙っているので、私は威を得た。そんなことを言う女は嫌いだ。


 「病院の裏手の小さな喫茶店で待っています。一件しかないのですぐにわかります」


 私は一方的に日時を伝えた。遠慮していても始まらない。今日の彼女は口数が少なかった。腕組みした指をそばかすだらけの頬にあて、どうしようかと首をひねっている姿を想像した。


 「お天気がよければね」


 なるほど。決定権を空に任せるわけだ。目が眩むような時を共有する可能性と、罪の意識を。


 その時赤ん坊が母を呼ぶ声がした。すなわち泣き声だ。またひっくり返りでもしたのだろうか。男の子も女の子も、赤ん坊の時分は一律に声が甲高いのは、遠くからでも大人の注意を引き、即座に危険を知らせるためだ。私は電話を切るべきだと思った。


 「ぼくは晴れ男なんだ」


 私は自信たっぷりに言い切った。



 それからだ。週間天気予報と降水確率に、私が露天商並みの関心を抱くようになったのは。「テキヤころすに刃物はいらぬ、雨の三日も降ればいい」


 おたがい相当なダメージである。

 私は一週間待った。彼女からの連絡はなく、梨のつぶてだ。そして今日が再診察の日だ。保険をかけておいて正解だったが、それでも進展がなければ別な手を考えるつもりだ。私はいつになく食い下がっていた。



 ハイネックのセーターのため谷間は拝めなかったが、ひざ小僧が見えるスカートの彼女は、きわめてつれなかった。こどもは見違えるように回復して元気になり、母のひざの上でぴょこぴょこ飛び跳ねている。


 椅子に押しつけられて扁平になった大腿が健康そうだった。私にそれもこれも諦めろというのか。


 「先日申し上げたお約束は、ちゃんと守ってもらえていますか?」


 私は彼女の顔から目を離さず、意味ありげに訊ねた。


 「はい。これ以上にはないほど言われたとおりにしています。ただお薬は必要なかったようです」


 やはりそうだったか。それにしても引っかかる言い方だ。


 「何かありましたら、ぜひいつでもどうぞ。お待ちしています」


 私は冗談めかして言った。例を挙げるなら電話だ。


 「どんな病も、ないに越したことはありませんね。この時期先生も、たちの悪い病気には気をつけてください」


 男と女の駆け引きは妙だ。一本取られた私は、引き下がるしかなかった。二本か三本かもしれない。


 「先日買って帰ったりんごはおいしかったですか?」


 彼女は問いかけるように両方の眉を持ち上げたが、やがてにっこりと笑った。小さく尖った歯が見えた。


 「ええ。とっても」


 やっぱりそうだったか。彼女はわが子のほっぺたを、そっと指先でつついた。



 私はさらに一週間待った。彼女からの連絡はなく、笛吹けどオッパイ踊らずだ。我ながら卑猥な気がした。


 私は患者の資料を取り出し、彼女の自宅の電話番号を調べた。母親の名前の欄には、桂冴子とあった。


 ありふれてはいない苗字だ。桂はちょうど今の時期に紅色の花を咲かせ、後にハート型の葉をつける好きな木だ。香の木と呼ばれてさまざまな役に立つが、如何せん葉が落ちた時にしか香りを発しない。桂は散りながら匂い、次に生まれる新芽のために世代交代をする。死んで花実が咲くものか。


 あまり縁起のよろしい話ではないので頭の隅に追いやった。彼女も生まれながらにして、桂という姓ではなかったろう。未婚の母かバツイチでもなければ。別に彼女のご亭主にケチをつけているわけではない。



 業を煮やした私は、自分から電話をするつもりだった。日中の時間帯なら、彼女はこどもと水入らずのはずだった。


 個人データの悪用だ。しかし変化は大切だ。そこから何かが生まれるのなら、もしそれがいい結果なら、彼女も不本意ではないだろう。

 「念のため処方箋を出しておきましょう」


 薬は必要ないだろうと思われた。ぬり薬ぐらいしか出せない。私は処方箋をプリントアウトすると、別なメモ用紙にさっと走り書きをした。


 <よかったら電話をください>


 メールアドレスを記すほど幼くはない。きちんと相手の声を聴き、ニュアンスを把握しながら判断するのが正しいやり方だ。直接相手の顔を見られるのならなおいい。


 私はメモをこっそりと処方箋にクリップで留め、さらに保険をかけることにした。


 「念のため一週間後にいらしてください」


 再診の必要はないだろうと思われた。彼女は余計な薬代と診察費を払うはめになるのだが、物事の始まりにはイニシャルコストがかかるというものだ。


 職務権利の乱用だ。しかしJRの駅改札口の職員によれば、まだ自動改札機が設置されない時代、可愛い女の子から切符を受け取る際には、必ず手を握ったという。だからどうということもないのだが、私は何食わぬ顔で、可愛い女の子に付け文をした。


 「お大事にどうぞ」


 メモ書きに気づいた彼女は、眉毛を片方だけ吊り上げた。じぃっと私を見たが、それ以上のリアクションは起こさなかった。さすがはメロウな大人だ。


 母と子が診察室から出ていくと、私は椅子の背もたれに寄りかかり、大きく伸びをした。行く末が楽しみだ。



 その日の帰り道、病院のそばには必ず一件か二件はある、くだもの屋の前で私は足を止めた。


 夜の明かりの下、りんごがあった。季節がらかいちごが目についた。整然とパックに収まった粒ぞろいのいちごは、出始めのためかべらぼうな値がついていた。初物を食べると長生きするとはいえ、これでは手が出せない。私はコートの襟を立てた。


 りんごあたりが無難だ。彼女は本当に買って帰っただろうか。陽気な彼女のことだから、きっとまっとうしただろうと思う。