「近いうちに食事でもしませんか?」


 「しないわ」


 私は絶句した。


 「でしょうね」


 小さなエスプレッソのカップを口に運ぶ彼女は、七人の小びとの食器を勝手に借りた白雪姫なのだが、乳白の肌と薔薇色の頬と漆黒の髪を持つ形のよい唇から出る答えは辛らつだった。小児科医だけに童話にはちょっとばかり詳しい。それにしてもりんごがらみだ。


 「ところで小狸の置き物は元気ですか?」


 彼女は一瞬きょとんとしたが、すぐに相好をくずした。


 「おかげさまで。おみやげに編み笠と徳利を買っていこうと思うんです」


 「信楽焼の狸ですね。それは千客万来だ。ただし病院では困ります」


 各々のカップを手に、しばし私たちはほのぼのとした。美人な奥さんにはこどもの話題に限る。なんでもない奥さんには天気の話をしていればいい。


 「おかわりは?」


 中味の少ないカップは、あっという間に空だ。


 「いただきます」


 変に遠慮しないところがいい。


 「ケーキは?」


 「いただくわ」


 こちらも気が楽だ。


 「しかし狸はうらやましい。何しろ八畳敷きですからね」


 「そうかもしれませんね。おむつの宣伝も、おちんちんの大きい男の子しか出られないそうですから」


 成熟した会話である。彼女も幾分打ち解けてきたようだ。下ネタに着いてきてくれる女性はやりやすい。


 「アダルトビデオの男優もそうです。それであなたの息子さんの息子さんは立派なんですか?」


 「そんなのわからないわ。比較のしようがないもの」


 「それじゃあ大人の男のならどうです?」


 彼女は私を斜めに睨んだ。


 「先生ってエッチなのね」


 「男はみんなそうです。先生と呼ばれる職業の者は特にね。女性だって同じでしょう。君の目を見ればわかる」


 彼女がその目を見られないよう、おどけた感じでどんぐりの瞳を閉じたので、私は席を立って顔を近づけそうになった。


 「先にたんたん狸とか言ったのは君の方だよ」


 「あれは先生をからかったのよ」


 「どういうこと?」


 「先生わたしをじろじろ見ていたでしょう。なんでもない人にあんなバカなこと言わないわ」


 「なおさら気を引こうとしたわけ?」


 「さぁどうでしょう」


 私と似て、とぼけるのまでうまかった。


 「君はぼくと食事をすることになるな」


 彼女はそれきり黙り込むと店内を見回し、意味もなくロングドレスの裾を直した。


 「いつ電話してくれても構わない」



 彼女は会計の際、本気で支払おうとした。ショルダーバッグから財布を取り出すようすが真面目そのもので、私はやんわりと制した。無理に誘い出したのは私の方なのだし、ましてや男に奢られるのが当然と考えている例に比べれば、すこぶる好感が持てた。

 目の前に座った女性は、テーブルの上に立った本日のおすすめケーキのメニューを、子供っぽくいじり回していた。今日は膝の上に誰もいない。


 「何にしますか?」


 「エスプレッソを」


 いきなりエスプレッソとはめずらしい。「ミルクティーに旬のストロベリーショートを」などと言うものとばかり思っていたので、私は意外な気がした。


 「冴子さんでしたね」


 「はい」


 「そう呼んでもいいですか?」


 「ええ」


 彼女はあっさり承諾した。おたがい名前で呼び合えば親しさが増す。私は待った。


 「訊かないんですか?」


 「何を?」


 「私の名前を」


 「知ってるわ」


 「下の名前です」


 「それじゃあなんておっしゃるの?」


 いかにも投げやりな訊き方だ。しかし答えておかなければいけない。


 「ソウシといいます」


 「ソウシさん?」


 オウム返しなその言い方が、昨今流行りの「萌~」なるのに感じが似ていて、私は少しばかりくすぐったくなった。


 「沖田総司と同じ?」


 「あんなに病弱じゃない。壮大の壮に志です。いかにもありがちな名前だ」


 「とても凛々しいのね」


 「さもこけおどしな名前です」


 「ふうん。ご本人がそうおっしゃるなら、きっとそうなんでしょうね」


 相手が医者だからといって甘やかさないところがいい。


 「でもやっぱり男らしいわ」


 どうやら彼女は、褒めてくれているらしい。私は勢いを得た。

 啓蟄も過ぎ、陽ざしがやわらかくなった。花の匂いが風に乗り、口では言い表しがたい新しい息吹きに、川や運河や地面からは見えない湾から立ち昇る、潮の香りが混じっていた。街路樹の青桐の枝先が人工的に無残に切り取られているのは、そこから新葉を芽生えさせるためだ。


 秋よりもこの季節の方が、人恋しくなるのではないか。何もかもが生まれ出るこの時、自分がひとりであることに気づかされる。



 確実に日が長くなっていた。立ち並ぶ高層ビルに車の群れ、人口のひしめくヒートアイランドに雪は降らない。きわめつけは地面の下を縦横に走る地下鉄の熱で、平均気温よりさらに三度から五度は高い。だがこの街も、夕方になればそれなりに冷え込む。


 ほどよい室温の病院内から、ぬくぬくと温かい店の中へ移動してコーヒーを飲んでいる私は、これから来るひとが寒い思いをしていなければいいと考えていた。私はまだ何も知らない女性の身を案じていた。これも生まれ立ての春のなせるしわざだろうか。



 ドレスのようなロングスカートの女性が、狭い入口に現れた。私は手を振った。


 「絶好の日和でしたね」


 と私が得意面をさらすより、彼女が機先を制した。


 「知らないお店を探すのって楽しいわ」


 そのひと言で、これからの時間が楽しくなるだろうと思った。私はネクタイを緩めた。