手荷物を持たない私は、手持ち無沙汰なのと風が冷たいという理由で、両手をポケットにしまい込んで歩き、時折踏みつける枯葉が乾いた音を立てた。そろそろ肩を抱くタイミングかと斜め後ろを振り向けば、彼女はそこにいない。ヒールの音に気がつかなくなっていたとは迂闊だった。


 「冴子さん」


 私は小さく呼びかけてみた。応える声はない。恋人たちの実態にあてられて逃げ帰ったわけでもあるまいし。少々私は心配になった。


 「冴子!」


 「ここよ」


 少し離れた植え込みの下から、ひょっこりと顔を出した。私はつかつかと歩み寄った。


 「何やってるんだ」


 「匂いのもとを探していたの。沈丁花よ。今が見納めでしょ。嗅ぎ納めかしら」


 「女がひとりでふらふらしちゃ駄目だ!」


 夜は危険な場所だ。口調がいつになく厳しくなり、彼女がたじろいだ目を向けた。だがすぐにその顔が引き締まった。


 「ごめんなさい」


 素直な言い方だった。声には気持ちが込められていた。


 「もういいよ」


 というわけで私は肩を抱いた。


 「最初からこうやってくっついていれば温かかったのにな」


 彼女は救われたような、戸惑ったような目を向けた。

 本道のほかに、まばらに木の生えた築山の横を通り抜ける小道や、池のほとりに出るわき道があったりするが、私は気の向くままに進んだ。彼女は私からは見えない一歩下がった位置を控えめに歩いていた。


 水に惹かれて池の前にさしかかると、夜目にも水はきれいではなさそうだが、水面が外灯を受けてきらきらと光り、カエルの乗っていそうな葉がいくつも浮いていた。


 「こんなところでも暑い季節には水連が咲くのかもしれないね」


 「ええ。見てみたいわ。水連の花って可憐なようで華麗よね。朝に咲いて昼にはしぼんじゃうのがはっきりしているし」


 「マイペースでわがままな花なんだな」


 「潔くて気高い花なの。わたし池が見たかったのよ。こっちに来てくれてよかった」


 「水には不思議な魅力があるからね。ちがう道を辿るやつがいるのかな」


 「いると思うわ。きっと好奇心のないつまらない人だわ」


 そう言う彼女は手をうしろに組んで、ゆったりゆったりと歩いている。社内を満足げに視察する部長のようだ。休みなく周りの景色に目を配っていた。



 公園の中心部ともなると灯りは極端に減少し、暗がりに目が慣れればいるいる、そこの東屋の柱の影にも、向こうの木の下にも、あっちもこっちもアベックだらけだ。一様に顔を寄せ合ったり、無言で抱き合ったりしている。どなたも熱心である。


 さらに足を進めるとこじんまりとした広場が開け、チューリップの咲く花壇を取り囲むようにベンチが並んでいる。暗闇に目を凝らせばそのほとんどが埋まっており、異様な雰囲気ではあるが、そこを通り抜けなければ今来た道を戻るはめになる。


 多少ひやかしの気持ちもあり、彼女のようすを気にかけながら、ぐるりと花壇を回った。それがまるで暗黙のルールか礼儀でもあるように、ベンチはひとつおきに埋まっている。誰もがてんでに好き勝手なことをやっている。黒装束の男が一人で歩いていれば、まちがいなくのぞき屋だ。私もそのひとりに含まれる。


 この寒気の中、どなたもご執心である。こんなところでいちゃいちゃしているひまがあったら、ホテルにでもなんでも行けばいいのだ。デートの日の夕食に牛丼屋へ入り、お茶をおかわりして喫茶店代わりにするような真似はやめろと言いたい。我ながら支離滅裂だ。


 私は彼女とのこれからの時間を考えると有頂天になっていた。ものめずらしそうにきょろきょろしていた彼女に私は耳打ちした。


 「他のことを考えられないのかな。寒いのに。こういうのを見ているとなんだか悲しくならないか?」


 「そうかしら。幸せそうだわ」


 彼女は振り返り、改めて恋人たちを見守った。現実的で合理的な男との見解の相違かもしれない。


 「家でテレビを観ていた方がましだけどな」


 色とりどりのチューリップと彼女の白いコートだけが闇に浮き上がっていた。アハハハと彼女は笑った。


 「これだから男の人ってかわいくないわ。でもそういうところがかわいい」


 かわいいと言われた男が、どんな顔をしてよいのかわからない。

 希望があるから生きられるのだと思う。なんでもいい、些細な事柄で十分だ。私の場合、たとえそれが不埒であっても変わりはない。裏を返せば希望がなければ生きられない。それを探すことから始まる日々だ。


 男と女は追えば逃げ、逃げれば追う。彼女から電話があった時、これで勢力図が変わったなと思った。



 地下鉄の改札口が待ち合わせ場所だった。雨にも負けず、風にも負けず、地下道を通ればどこへでも行ける。彼女はまだ来ていない。なぜなら私が早く来過ぎているせいだ。


 両手をポケットに突っ込み、颯爽と改札口に登場した彼女は、真っ白いウールのロングコートだ。さぞやクリーニングがたいへんだろう。実用的でない服装は、彼女が良家の奥様であることを意味した。


 彼女はおよそマダムとは思えない無邪気さでぺこっと頭を下げると、前に落ちた髪を耳にかけ直した。イヤリングはつけておらず、耳たぶには穴も開いていない。指には指輪もはめていなかった。何ほどかの主義の顕れだろうか。


 「それじゃあ行きましょうか」


 二人が同時に口にした言葉だ。彼女が笑い、まずまずのスタートだ。



 階段を上がって地上へ出ると、冷たい空気に見舞われた。だが彼女とともに空を仰げば、いつの間にか冬の星座は消え、宵の明星が大きく光っていた。


 街の雑踏を尻目に、私たちは公園の入口へ向かった。私は彼女を広い公園の外れにある、閑静なレストランへ連れて行くつもりだった。有名店での派手なディナーより、彼女にふさわしいと感じるからだ。


 薄暗い外灯の公園内は花の香りが漂っていた。静かな自然に包まれる街角のオアシスは別世界だ。どこからか噴水の音が聴こえる。


 「夜の公園を散歩するなんて素敵」


 「二人でいればね。衛生教育上どうかと思われる」


 「そうなの?」


 「今にわかるよ」


 昼と夜とでは大きく様相が異なるオアシスだ。