「銀行マンよ」


 「へ?嘘だろ」


 私は心から意外だった。ミュージシャンと言われた方がまだ信憑性がある。


 「本当よ」


 お堅く慇懃で、いわれのない金銭を庶民から巻き上げるのが仕事の、融通のきかない男が彼女のパートナーとは到底思えなかった。


 「君が銀行マンの妻だって?いったい君はどこで人生の選択を誤ったんだ」


 「だってそうなんだもの」


 彼女は燃えるような目で私を見つめ、誰もいないオープンテラスに怒ったような目をやり、その向こうの林を見やった時には静かな目になった。人は瞬時にしてさまざまな目をするものだと思う。


 彼女がぴったりと口を閉じ、ため息まじりに鼻から大きく息を吐いたので、この件については打ち切りにするべきだった。


 「冴子」


 彼女はきょとんと私に目を移した。名前を呼び捨てにすれば距離が縮まる。


 「他に前菜は?」


 少し目を丸くしたが、それほど違和感は感じていないようだった。さっき一度呼んでいる。


 「季節のサラダを」


 彼女が告げたのと同時に店員が現れたので、もう一度言う必要はない。店員はベリーピンクのボトルとシャンパングラスを二つ並べ、それぞれに泡の弾ける飲み物を注ぐと、彼女の注文を復唱した上で言った。「どうぞごゆっくり」


 気の置けない相手との夕食時にごゆっくりと言われると、本当に肩の力が抜ける思いがする。鮮やかなピンク色のボトルを、彼女がためつすがめつした。リボンの結ばれた、捨ててしまうには惜しいくらいきれいなボトルだった。


 「乾杯。二人の未来に」


 彼女の注意がボトルから逸らされた。


 「乾杯。きれいな色の明るい未来に」


 彼女がグラスを掲げた。

 店内はシックな木目調だ。屋外にオープンテラスがあるが、テーブルは隅に寄せられ、椅子が何段にも重ねられている。今は殺風景だが、陽気のいい日には生ビールのジョッキを乾杯する姿でいっぱいになるのだろう。


 「ベリーピンクのロゼシャンパンがございますが、お持ちしますか?」


 「それじゃあそれを」


 「菜の花のソテーがおすすめですが、いかがでしょうか?」


 「それじゃあそれも」


 「ずいぶんと適当ね」


 店員がいなくなり、たたんだコートを隣りの椅子に押しつけながら、彼女が笑って言った。


 黒いニットのツーピースは体にぴったりしたデザインで、肩と腕の細さが際立って見えた。バストとのバランスが素晴らしく対照的だ。


 手首が折れそうに細い。これでよく赤ん坊が抱けるものだと思う。組んだ脚の起伏がそのままスカートに表れ、エレガントというよりはセクシーだ。黒い服に色の白さが映える。


 こういう女性を射止めた男は、いったいどんなやつだろう。私は単純に知りたくなった。


 「君のご主人様はどんな人?」

 薄暗い公園の一角に、煌々と黄色い光が洩れていた。


 「ほら着いた。ここが注文の多い料理店だよ」


 宮沢賢治の物語のごとく、幻想的なムードに包まれている。


 「最後にはオオカミに食べられちゃうの?」


 食べられるとしたら送り狼にだろう。


 「ドイツには本当に狼ホテルというのがあるそうだよ」


 「お伽の国だものね。森がいっぱい」


 彼女は周りを見渡した。レストランに隣接して背の低いホテルがある。隠れ家的憩いの場という感じだ。彼女がそれに気づかないはずはないと思うが、何かを結びつけて考えているようすはなかった。


 ホテルが裏にあるからここのレストランに決めたわけではない。小規模なホテルにはラウンジもカフェもなく、レストランの方がホテルに付属しているのだ。ともあれ万一に備えては便利な条件ではある。