彼女が利用した洗面所は、隣りのホテルと兼用のはずである。どんなに鈍いやつでも気づく構造だ。


 「冴子、そろそろ出ようか」


 「はい」


 コーヒーのあと、グラスの底に残ったワインを飲み干し、私はいち早く伝票を手に立ち上がった。あえて彼女を支えて歩かなかった。向こうからしなだれかかるのなら別だが。



 私はレジで会計を済ませた。冴子は後ろで大人しく待っていた。


 「ごちそうさまでした」


 丁寧に頭を下げ、冴子は私を見上げた。


 「ぼくとセックスするか?」


 遠まわしに言っても始まらない。相手の顔色を窺うのは、弱気な男のすることだ。


 「するわ」


 私は頷いた。私たちは店の出口へは向かわず、彼女が洗面所へ行くために通ったホテルへの渡り廊下を抜けた。

 時間をかけて食事をしたつもりだが、それにしたってワインを二本空けた。最後の方は女に飲ませまいと自分で責任を持った。目は据わっていないが、若干彼女の上体がふらふら揺れて見えるだろうか。


 「コーヒーは?」


 「エスプレッソを」


 ミニカップの濃厚コーヒーで覚醒してくれればありがたい。私としては、彼女にしゃっきりとしていてほしかった。酩酊状態の女をどうのこうのする趣味はない。


 彼女が一度洗面所に立ち、ひとりで歩けるものかと危ぶんだが、思ったよりしっかりとした足取りで意志の強さを感じさせた。


 戻ってきた時にはすっきりした顔をしており、髪をきれいに梳かし、リップがほんのりぬり直されていた。メイクらしいメイクはほとんどしていないので、ルージュというよりはやはりリップだ。


 彼女はエスプレッソを三杯立てつづけに呷った。

 菜の花のソテーとサラダをあっという間に平らげ、チーズをつまみながらメニューを挟んでいた。ああだこうだと相談しながら、二人の好きなものをバランスよく注文した。小学生時代に教科書を忘れ、隣りの席の女の子と一冊の本を囲むように睦まじい。


 彼女の意向により、時期はずれで値段の下がったボジョレーヌーヴォーの赤を飲んだ。彼女のペースは早く、注げば注ぐだけ飲み干してしまう。


 「酒は強いのかな?いや強いな」


 「お酒が好きなのと強いというのが比例するなら好きだわ。お酒を飲むのは久しぶりなの」


 「キッチンドランカーになっても困るしな」


 「素養はあるかもね。お酒は緊張感も解けるし」


 彼女にも緊張感なんかあるのかと思う。



 彼女は何を食べても「おいしい!」と歓声を上げた。


 「エスカルゴの代わりにナメクジが出てきてもわからないんじゃないか?」


 「まあひどい。でもおいしかったらわからないかも」


 「好き嫌いがないんだな」


 「あらあるわ。言ってみましょうか」


 鼻の頭をひとさし指でぽんぽんとたたき、彼女は考える仕草をした。


 「無理して捻り出さなくてもいいよ」


 「それもそうね」


 彼女はグラスのワインを呷った。


 「いきなりそんなに飲むと体に毒だよ」


 「今はおいしいし楽しいわ。それにチーズも食べたし。いざという時にはお医者さんもいるし」


 「乳製品が胃壁をコーティングして酒を防御するにしても限度があるよ」


 介抱するのはやぶさかでないにしても、泥酔した女は見るに忍びない。